シャローム、安田遜です。
先日、わが家の愛犬が死んだ。10歳のチワワで、死因は転移性の肺ガン。「幸せだったのかな?」ということを、どうしても考えてしまう。
正直ぼくは、彼をあまりかわいがってはいなかった。なでられるのが嫌い、めちゃくちゃ臆病、やたらと吠えまくる・・・、そんな扱いづらい犬だったからだ。
2011年の東日本大震災のとき、ものすごく怖がってブルブル震えていたのを、妹がキャリーケースの中に入れてあげた。それで落ち着かせようとしたのだが、逆効果だった。
もう臆病さに拍車がかかって、ぼくたち飼い主がなでようとしても、ウゥ~ッとうなって噛みつくようになってしまった。
それ以来、ぼくは彼を厄介者扱いして、ほとんど世話もしなかった。ちょっとは遊んであげたけど、あんまり関心がなかった。
だから、いまさら彼を「愛犬」と呼ぶ資格があるのかって、少し後ろめたい気持ちがある。でも、たしかに愛犬だったようだ。
彼が死んだとき、思いもしなかったほどの深い悲しみが、ポロポロと湧いてきたから・・・。
数週間前、彼がヘンな呼吸をしているのに気がついた。胸からグゥルグゥルと音がして、ちょっと苦しそう。食欲もない。
ぼくたちはただの風邪だと思っていたから、すぐには病院へ連れて行かなかった。でもやっぱり心配で、母が診察を受けさせると、結果は後腹膜ガン。それが肺に転移して、余命は2か月未満とのこと。
少し前の健康診断では異常なしだったのだが、このときはもう末期状態だった。かなり見つかりにくいガンだったそうだ・・・。
その事実に妹は泣いたけれど、ぼくはもともと愛着深くはなかったから、それほど動揺しなかった。ただ、彼が苦しんで死ぬことだけが心配だった。
あんなに小さな体が苦しむところなんて、とても見ていられない。それに、そういう姿を見て家族が悲しむのは、もっとイヤだった。
だからぼくは、安楽死を提案した。でも、母はそれを受け入れられなかった。それからは、ぼくも以前より意識的に彼を気遣うようにした。
不思議なことに、彼は元気になっていった。薬の効果だったのかもしれないが、ガンというのは誤診だったんじゃないかと疑うほど回復(?)していった。
ヘンな呼吸音も治まってきて、食欲も戻ってきたし(好物の白米はなぜか食べなくなったが)、おもちゃで遊ぶようにも、また大声で吠えるようにもなった。
だから、「まぁ、今年いっぱいは持つだろうね!」と希望も出てきていた。それは気休めではなく、ほんとうにそう思えた。
*
2020年2月8日の朝、彼は死んだ。
死の直前の朝早く、母に「ねぇ、呼吸がおかしいの」と起こされた。でもぼくは、あんなに元気になったんだから心配ないと思って、そのまま二度寝してしまった。
それから母がまた起こしに来ることもなかったので、やっぱり大丈夫だったんだと安心して、彼のいるリビングへ下りて行った。
それで彼のゲージをのぞき込もうとしたらゲージがなくて、代わりに座布団が敷かれていた。その上に、愛犬の死体が横たえられていた。もう花も供えられていて、でも、眠っているみたいだった。
目と口が半開きで、なにか気持ちよさそうに歌っている少年のような顔つきだった。かわいかった。
まだ死後硬直の始まっていない体をなでてやりながらも、なでられるのが嫌いだったので、あまりなですぎないようにした。
どうしても半開きの目が気になって、閉じてやろうとするのだが、なかなか閉じきらない。もう胸が締めつけられて、・・・涙がにじんできた。
なんでも、目を開いたまま死んだらしい。過呼吸のようになったのかわからないが、苦しそうにしていたら突然、フッと動かなくなったと。
まさか、自分がこんなに悲しむとは、思ってもいなかった。
彼の死に対して悲しんでいるのか、死そのものに対して悲しんでいるのか、なんだかよくわからない悲しみだった。とにかく悲しい・・・。
彼の死に顔を見つめながら、ぼくは心の中で「おまえはどこにいるんだ?」とつぶやいた。そうしたら、余計に悲しくなってしまった。
動物は人間と同じように、魂を与えられているのだろうか?
それとも――
動物は死んだら「無」になるのだとしたら、ぼくはあんまりだと思う。だけどそれは、人間のエゴや感傷にすぎないのだろうか?
彼が死んだ日はなかなか眠れず、ずっと神さまに尋ねていた。「彼はどこにいるんですか?」と、寝落ちするまでずっと、泣きながら尋ねていた。
愛犬にも魂が与えられていてほしい。そう思うのは、エゴなのだろうか?
もし彼に魂があったら、いまごろパラダイスの原っぱを思いっきり駆け回っているはずだ。彼は罪を犯したことが、一度もないのだから!
もしそうではないとしたら・・・、
神さまはなぜ、ぼくに彼を惜しむ気持ちを起こさせるのだろう?
なぜぼくに、彼に対する後悔を抱かせるのだろう?
動物は死んだらどうなるか、聖書にははっきりと書かれていない。だから、神さまに気持ちをぶつけるしかなかった。そうしたら、ちょっとだけすっきりした。
それと、「あぁ、そっか。キリストはどんな悲しみもわかってくれるんだ。一緒に泣いてくれるんだ」ということも思い出した。
*
聖書には、動物の魂について書かれてはいない。でも、はっきりと示されていることがある。
神の愛だ。
人間が動物をかわいがったり、憐れんだり、哀悼したりする気持ちは、全部神さまが与えてくれた
そうだとしたら、神さまは動物をも愛している、ということだ!
だからこそ、ぼくはもっと積極的に愛犬と関わるべきだった。もっとかわいがって、全力で愛情を注いでやるべきだった。
彼は、神さまがぼくたち家族を信頼して預けてくれた、たった一つの命だったのだから。とても反省している。
愛犬の一生が幸せだったのかどうか、ぼくにはわからない。彼の魂があるのかどうか、あるとしたらいまどこで生きているのか、それもわからない。
ただ、愛犬を失って悲しむぼくの気持ちを、神さまは知ってくれている。ぼくはそう信じている。
ぼくはいま、またペットを飼いたいとは思わない。死別がツラいということもあるけれど、自分のペットへの責任のなさを、ちゃんと反省しないといけないから。それが一番の理由だ。
「あなたに委ねている命あるものすべてを、あなたの全力を尽くして愛しなさい」
神さまに祈る中で、ぼくはそう言われたような気がしている。周りの人々を愛し、あらゆる生き物をも大切に扱いなさいと。
ぼくはいままで、ペットが死んで泣き悲しむ人たちの気持ちを、ほとんど理解できなかった。たかがペットじゃないか、と思っていた。
でも、ペットに愛着のなかったぼくでさえ、愛犬を失って、こんなに悲しくて寂しい思いになる。たかがペットだなんて、もう言えない・・・。
ペットの存在が人間にとってどれほど特別なものなのか、ぼくは初めて、身をもって理解できた。ほんとうに、彼らは家族同然なのだ。
愛するペットを失って、深い悲しみに沈んでいる方々に、神さまの温かい慰めがありますように。アーメン。
神さま、素晴らしい家族を、ありがとうございました。
画像の出典(Pixabayより)