シャローム、安田遜です。
2020年2月8日、わが家の愛犬が死にました。10歳のチワワで、死因は転移性の肺ガン。「幸せだったのかな?」ということを、どうしても考えてしまいます。
正直ぼくは、彼をあまりかわいがってはいませんでした。なでられるのが嫌い、異常なほどに臆病、やたらと吠えまくる…。そんな扱いづらいペットだったからです。
2011年の東日本大震災のとき、ものすごく怖がってブルブル震えていたのを、妹がキャリーケースの中に入れてあげました。それで落ち着くと思ったのですが、逆効果だったようです。ますます臆病になって、ぼくたちがなでようとしても、ウゥ~ッとうなってかみつくようになってしまいました。
それ以来、ぼくは彼を厄介者扱いして、ほとんど世話もしませんでした。ちょっとは遊んであげたけれど、あんまり関心がなかったのです。だから、「愛犬」と呼ぶにはふさわしくないかもしれません。
彼が死んだとき、思いもしなかったほどの深い悲しみが湧いてきたのには、自分でも驚きでした…。
死の数週間前、彼がヘンな呼吸をしているのに気がつきました。胸からグゥルグゥルと音がして、ちょっと苦しそうなのです。食欲もありません。
ぼくたちはただの風邪だと思っていたので、すぐには病院へ連れて行きませんでした。でもやっぱり心配で、母が診察を受けさせると、結果は後腹膜ガン。それが肺に転移していて、余命2か月未満と宣告されたそうです。
直前の健康診断では異常なしだったのが、そのときはすでに末期の状態だったといいます。後腹膜ガンは、かなり見つかりにくい病気なのだとか…。
その事実に妹は泣きましたが、ぼくは先述のとおり愛着深くはなかったので、それほどの動揺はしませんでした。ただ、心配なことがひとつだけありました。彼が苦しんで死ぬことです。
あんなに小さな体が苦しむところなんて、とても見ていられないでしょう。それに、そういう姿を見て家族が悲しむのは、もっとイヤでした。
だから、安楽死を提案したのです。でも、母はそれを受け入れませんでした。それからは、ぼくも以前より意識的に彼を気遣うようにしました。
――不思議なことに、彼は元気になっていきました。
薬の効果だったのかもしれませんが、ガンというのは誤診だったのではないかと疑うほど、回復していったのです。あの呼吸音も治まって、食欲も戻ってきたし(好物の白米はなぜか食べなかったけど)、おもちゃで遊ぶようにも、また大声で吠えるようにもなりました。
だから、「まぁ、今年いっぱいは持つだろうね!」と、ほとんど楽観的に考えていました。それは気休めではなく、ほんとうにそう思えたのです。
*
2020年2月8日の朝、彼は死にました。
死の直前の朝早く、母に「ねぇ、呼吸がおかしいの」と起こされました。でもぼくは、あんなに元気になったのだから心配ないと思って、そのまま二度寝してしまったのです。
それから母がまた起こしに来ることもなかったので、やっぱり大丈夫だったのだと安心して、彼のいるリビングへ下りて行きました。
それで彼のゲージをのぞき込もうとしたらゲージがなく、代わりに座布団が敷かれていました。その上に、愛犬の死体が横たえられていたのです。目と口が半開きで、なにか気持ちよさそうに歌っている、少年のようなかわいい顔つきでした。
まだ死後硬直の始まっていない体をなでながらも、なでられるのが嫌いだったので、あまりなですぎないようにしました。どうしても半開きの目が気になって、閉じてやろうとしたのですが、なかなか閉じきりません。ぼくは胸が締めつけられて…鼻の奥がツンとするのを感じました。
なんでも、目を開いたまま死んだといいます。過呼吸のようになったのかわかりませんが、苦しそうにしていたら突然、フッと動かなくなったのだ、と。
まさか、自分がこんなに悲しむとは、思ってもいませんでした。
「愛犬の死」に対して悲しんでいるのか、「死そのもの」に対して悲しんでいるのか…? なんだかよくわからない悲しみでしたが、とにかく悲しかったのです。
死んだ彼の顔を見つめながら、ぼくは心の中で「おまえはどこにいるんだ?」とつぶやいていました。動物は人間と同じように、霊を与えられているのでしょうか?
動物は死んだら「無」になるのだとしたら、ぼくはあんまりだと思います。だけどそれは、人間のエゴや感傷に過ぎないのでしょうか?
動物の死後について、聖書にはっきりとした記述を見つけることはできません。ただ、ひとつだけ気になる聖句があるので、短いですが紹介します。
人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
―「コヘレトの言葉」第3章21節(新共同訳)
キリスト教会の大方の意見では、霊を与えられているのは人間だけだ、とされています。「動物に霊魂はない」とする彼らの根拠がなんなのか、ぼくにはわかりませんが…。
さて、ペットを失った悲しみは、彼らの霊のあるなしに関係しません。愛犬が死んだ日はなかなか眠れず、後悔と悲しみに沈みながら、彼の居場所を神に尋ねていました。
神は答えてくださいませんでしたが、「あぁ、そっか。神様は、どんな悲しみもわかってくださるんだ。イエス様は、一緒に泣いてくださるんだ」と、ぼくは思い出したのでした。
*
ぼくたちが動物をかわいがったり、あわれんだり、哀悼したりする気持ちは、すべて神が与えてくださったプレゼントなのだと思います。そう思う理由は、聖書に次のような記述があるからです。
地の獣、空の鳥、地を
這 うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
―「創世記」第1章30節(新共同訳)
ぼくはこの聖句から、動物たちに対する神の深い愛情を感じます。ぼくたちは、そのような神にかたどって創造された
のです!(創1:27)
だからこそ、ぼくはもっと積極的に愛犬と関わるべきだったし、もっとかわいがって愛情を注ぐべきでした。彼は、神がぼくたち家族を信頼して預けてくださった、たったひとつの命だったのですから。
愛犬の一生が幸せだったのかどうか、ぼくにはわかりません。彼の霊魂があるのかどうか、あるとしたらいまどこで生きているのか、それも知りえません。ただ、神はペットを失う悲しみをご存じだ、とぼくは信じています。
ぼくはいま、またペットを飼いたいとは思いません。死別がツラいということもありますが、ペットへの無責任を反省しなくてはならないというのが、いちばんの理由です。
おまえに委ねた命あるものすべてを、全力で愛しなさい!
祈りの中で、ぼくはそう言われたような気がしています。周りの人々を愛することはもちろん、あらゆる生き物をも大切に扱いなさい、と。
ぼくはいままで、ペットを失って悲しんでおられる方々の気持ちを、ほとんど理解できませんでした、「たかがペットじゃん」と思っていたから。
でも、愛犬に関心の薄かったぼくでさえ、彼が死んで、こんなに悲しく寂しい思いになったのです。ペットの存在が人間にとってどれほど特別なものなのか、ぼくは初めて、身をもって理解しました。ほんとうに、彼らは家族同然です。
愛するペットを失って、深い悲しみに沈んでおられる方々に、温かい慰めがありますように。アーメン。
神様、いとおしい家族を与えてくださり、ありがとうございました。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)