ハレルヤ~! 安田遜です。
ぼくには、夜ごとYouTubeで癒し系動画を観あさる、という乙女のような習慣があり、最近は、独身女子が自分のライフスタイルを紹介する動画にはまっています。そして先日、ある動画の中に、すてきな光景を見つけました――
ある女性が手間暇をかけてつくった料理。それら2、3の品々が、いちいちおしゃれなお椀や小鉢にそれぞれ盛られ、小さな丸テーブルに慎ましく並べられる。その円卓に、カーテンのスキマからひと筋の金色が差し込み、立ち上る湯気を輝かせている。
そのシーンが流れると、ぼくはなぜか瞬間的に、食前の祈りを捧げている自分の姿を想像しました。その女性はクリスチャンではない(と思う)のですが、彼女の動画を通して感じた慎ましい信仰生活への憧れを、今日は綴りたいと思います。
神にある種の疑いを抱き、信仰から離れ、教会からも遠のき、まったくクリスチャンらしい日々を送らなくなって3か月。特に目立った出来事は起こっていません。例えば、よく足の小指をぶつけるようになったとか、犬のフンを踏むようになったとか、駅の改札を一発で通れなくなったとか、そういう地味な罰みたいなこともありませんw
強いて言えば、朝の情報番組でよくある占いコーナーに、あまり嫌悪感を感じなくなったことくらいです。占いは聖書で禁じられているので、ほとんどのクリスチャンは距離を取っているはずです。ぼくも同じく目に触れないようにしていましたが、最近では別に気をつけなくなったどころか、四柱推命のサイトで自分の運勢を(参考までに)チェックするほどになりました。
完全に、信仰以前のスピリチュアル好きがぶり返していますね。あまり深入りしないように、注意していなければなりません…。
お察しのとおり、ぼくはもともと小さなころから、目に見えない霊的な世界に興味がありました。前世を信じていたし、守護霊もいると思っていたし、幽霊が見えるふりをして友達に除霊のまね事をしたこともあります。
そんな危険な遊びをしていたのは小学生のころで、友達にウソを打ち明けて謝罪したのは、社会人になって数年がたってからでした。とても信じやすい純朴な友達で、彼がぼくの信仰を「大丈夫?」と不安視したのは、ぼくにだまされたのが相当ショックだったからかもしれません(=_=)スマン
その後、ぼくはまともな大人になり損ねたものの、新興宗教にだまされたりだます側になったりすることもなく、ただのスピリチュアル系男子に落ち着いたのでした。
中学時代から20代前半までは、占星術・六星占術・九星占術・動物占い・手相占いと、手当たり次第に占いを試し、風水やゲンかつぎなんかもとりあえず実践していました。
いまにすれば、そういう生活も確かに「信仰」だったんだなぁ、と思います。特定の宗教に属することだけが信仰ではなく、目に見えない物事を「ある」と信じ、まだ見ぬ未来を「こうなる」と期待することも、立派な信仰だと言えるのではないでしょうか?
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宗教に対して得体の知れない抵抗感を抱いている日本人も、同じように信仰をもってしなければ利用できないはずの占いには目がありません。その理由を考えてみると、占いは具体的なアドバイスをくれることが多くてわかりやすい、ということがあるのではないでしょうか?
ラッキーカラーやラッキーナンバーは、わかりやすさの代表例です。ほかにも、いついつはここへ行くといいとか、何月から何月まではケガに気をつけろとか、玄関にどれそれを置くと運気が上がるとか、かなり詳しく助言してくれますよね。日常生活の細部に渡るその具体性は、ひたすら信じることに重点を置く宗教にはない、かなり魅力的に思える点だと思います。
加えて、自分の性格を言い当てられることに快楽を感じる奇妙な性癖を持つ日本人にとって、性格診断の側面もある占いは、この上ない娯楽のひとつです。
宗教に似た性質を持ちながら、統計学でもあり娯楽でもあるという、どこか神仏習合的なチャンポン感のある占いは、確かに日本人の気質に合っているのかもしれませんね。
そうは言っても、占い師、つまり他人に自分の人生を委ねてしまうのは、ぼくはかなり危険なことだと思います。ぼくたちは、やはり自分の主体性を大切にして生きていくべきです。
自分がなにをしたいのか、自分はどうしたいのか、自分はどの道を選ぶべきだと考えているのか。自分自身のそういう声を聴こうとせず、他人に人生設計を任せるところまでいくと、それはもはや信仰ではなく、ただの「依存」です。自分の人生に対する「責任放棄」と言ってもいいでしょう。
ただ、「わたしは自分の主体的な考えで、占い師を信じると決めたんだ!」と言われてしまえば、ぼくに反論の言葉はありません。なぜなら、ぼくも自分の主体性によってイエス・キリストを信じ、自分の主体性によって神にすべてを委ねようと決断したからです。
占いを信じるのは危険で、神を信じるのは危険ではないのかと思われた方もいるでしょう。その問いに対しては、「人間である占い師」と「全知全能の神」の信頼性を比較していただくように答えます。そもそも聖書の神を認めていない方には、なんの回答にもならないと思いますが…。
ぼくが信仰から離れたのは、聖書の神を危険視したからでも、信仰という行為自体に危険性を感じたからでもありません。
冒頭に書いたとおり、神にある疑念を抱いたからです。また、ぼくの信仰のあり方が、自分の主体性を損なうものだと気づいたからでもあります。それらのことに関しては、ぜひ前回までの記事を読んでいただきたいと思います。
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占いについてこれ以上は語りませんが、神への信仰に勝るものではないような気がします。その理由は、うまく言い表せません。占いが「自分」に注目するものであるのに対して、信仰は「自分以外」を尊ぶものだから、信仰のほうが崇高だと感じるのかもしれません。
信仰心を失ったぼくではありますが、神仏への信仰のある人生とは、やはり素晴らしいものだと思うのです!
自分の力の及ばない範囲があることを謙虚に認め、その範囲での加護を祈り求める。また、その範囲で生かされることに感謝する。確かに、ぼくたちはいつも自力の及ばない範囲で生きているのです。
ぼくたちは、いつ大震動するかわからない大地の上に立ち、寒暖の調節の利かない空気を吸い、雨だけでなくときに岩のようなひょうを降らせ、雷を落とすこともある空の下で生活しています。今日、そういう天地の間でつつがなく暮らせるのは、自分の力の賜物だと言えるでしょうか?
またぼくたちは、自分がどういう家庭に生まれ、どの国籍を持ち、どんな体質や性格や才能を備えるかをカスタマイズできません。
やさしく裕福な両親のいる人は、その人の努力の(前払い的な)報酬として、そういう夫婦の子という立場を与えられるわけではありません。ある人は日本に生まれ、ある人はひどく貧しい国に生まれて、幼くして過酷な労働環境に放り込まれますが、彼らの内のなにかが生まれに影響するはずはありません。
生まれつき音楽に秀でている人は、そうでない人よりも特別になにかをがんばった、ということもないのです。まだ母親のお腹の中にいるときに、いったいどんな努力をできるでしょうか!?
なにげない日常をつぶさに振り返ってみても、ほんとうに自分の力だけでなしえることは、実はとても少ないのだと気づきます――
朝目覚めること、顔を洗う水の冷たさを感じられること、磨くべき歯が生えそろっていること。尿と便が排せつされること、そのニオイに顔をしかめること。パンをかんで飲み下すこと、それが胃の中で消化されること、食物の栄養が小腸で吸収されること、その間にうたた寝できること。風を感じられること、小鳥のさえずりが聞こえること、それをきれいだなと思うこと。話せること、怒れること、笑えること…。
なに事も自分の力でやろうとする心構えは大切だと思いますが、独力が実を結ぶ範囲は非常に狭いのでしょう。ぼくたちは、結局はか弱い存在なのです。
信仰深い人はそうした事実を喜ばしく受け入れ、いまも自分の身を案じてくれているかもしれない神や仏に、へりくだって感謝を捧げているのでしょう。その姿に、ぼくは感動を覚えます。
そして、そういう「信仰の人」になりたいと、心の底では憧れているのです。