ハレルヤ~! 安田遜です。
このブログでイエス・キリストを伝えるために、ぼくは自分自身の実体験・考え・思いをベースにすることを心がけています。だから、知られると恥ずかしいような事実も、あえて記事に書き込むことがあります。
不仲な両親のもとで生まれ育ったこと、中高時代にいじめを受けたこと、仕事が続かず転々としてきたこと…。そんな黒歴史を生きてきた自分に失望し、ニート・ひきこもりとなったことも、あなたに隠し立てするつもりはありませんw
そして今回は、自殺未遂に至るまでの“暗黒時代”に触れながら、いまだから気づける神の助けについて綴ります。そのころ、ぼくはまだキリストを知りませんでしたが、神はぼくを気にかけていてくださったのです。
罪滅ぼしのための自分いじめ
ぼくがニート・ひきこもりとして過ごした年月を合計すると、約4年になります。その期間に稼げるはずだった給料を計算したら、なんと1000万近くにもなりました! かなり大きな損失ですよね…。
ぼくはいくつかの職場を渡り歩いてきましたが、仕事を辞めた理由は、いずれも精神的な問題がおもでした。とにかく、ぼくはどの仕事も2年以上は続けられず、すぐに辞めることを繰り返していたのです。
仕事が続かないと、当然自信を失います。「また働きはじめても、どうせすぐ辞めちゃうんだろうなぁ」と思うので、やがて仕事探しもやらなくなりました。
ぼくはもともとインドア派で、気軽に会えるような友達もいません。だから、必然的に社会との関わりが希薄になって、自己嫌悪と劣等意識を感じるようになりました。ぼくは恥ずべき無価値な人間なのだ、と。
こうして、ぼくのニート・ひきこもり生活が始まりました。社会とつながりのない状態は、まさに「闇」です。テレビで同年代の犯罪者を見ると、犯罪というかたちで社会と関わっている彼らに対してさえ、強い劣等感を抱いてしまうほどでした。
自分への悪感情をかき立てる存在に、両親がいました。ぼくはずっと実家暮らしですが、小言やなにかを言われたのではありません。むしろ逆で、父も母もあまり干渉せず、ぼくを家から追い出そうともしないで、衣食の世話をしてくれました。
では、なぜ両親に自己嫌悪をあおられたのかというと、ぼく自身が両親に対する不満を抱いているからです。父と母が不仲だったことは、冒頭で少し触れました。いわゆる機能不全家庭で育ったことについて、両親に憎悪とも言える思いがあります。
その両親に頼らざるを得ない自分が、情けなくて仕方がないのです。「精神的財産をもらえなかったんだから、その分、物理的財産をもらう権利はあるだろ!」と思う一方、そういうことを思ってしまう自分が、とてもみじめに思われるのでした。
また、日本国民の三大義務を果たしていないことも、ぼくの自己嫌悪と劣等感を助長しました。「教育」はまぁ別として、「勤労」をしていない。ということは、所得税の「納税」もしていない。義務を怠りながら日本の領土に安住している、という罪悪感があったのです。
社会に対しても家族に対しても、また自分自身に対しても、なにひとつ有益なことをできていない自分に、なんの価値があるのかわかりませんでした。当時は、自分で自分を責めることが世間に対する免罪符になる、と考えていたのかもしれません。
「自分で選んだ仕事さえまっとうできないなんて、情けない」
「結局、ただ甘えてるだけだ」
「みんなが普通にできてることが、どうしてできないんだ?」
ぼくは毎日のように、自分を責めつづけました。その時期の日記を開くと、激しい自責の言葉が、まるで呪いのように書き連ねてあります(x_x)
結果として、自分を責めて得られたものは、なにもありませんでした。やる気が奮い立つこともなく、むしろ生命力が奪われていっただけで、世間がゆるしてくれたという実感も、当然のことながらゼロでした。
「自分を救うのは自分」はまっ赤なウソ
ぼくは自分を責めるのにもいい加減疲れて、なんとか早くこの状況から抜け出そうと思うようになりました。でも、ネットで「ニート 脱却」と検索してみても、これという解決策は見つかりませんでした…。いえ、解決策は確かに示されていたのですが、それを実行する勇気を出せなかったのです。
そこでぼくは背中を押してもらおうと、過去に買った自己啓発本を開いてみました。するとそこには、「わたしはいかにダメな人間で、いかにその劣等感を力に変えて、いかに成功と幸せを手にしたか」が書かれていたのです。ぼくはこう思いました、
それさぁ、あんただからできたんでしょ…。
自己啓発の類を書く人というのは、結局はもともと強い人間なのでしょう。どうしようもなく弱いぼくが、生まれつき強い人間をまねしようとしても、土台無理な話です(ノД`)ハァ
いまだったら、イエス・キリストを通して、神から力と勇気を頂くことができます。でも、当時のぼくはまだキリストを知らなかったし、神はこういうときに助けてくださる方だとも思いませんでした。
「自分を救えるのは自分だけ」という幻想にすがりつき、必死にそれを信じて、なんとかそれを実践しようとしていたのです。
――が、頼るべき自分、自分の助け主である自分は、自分を救うどころか、もはや支えることさえできなくなっていました。ぼくは“ジブン教”の破綻に直面し、あと何十年もあるかもしれない人生に絶望することしかできませんでした。
いままで、ぼくは何度も同じ間違いを繰り返して、そのたびに自分を傷つけてきました。これからも、そんなことが延々と続くなら、もう生きる希望はありません…。
ぼくは「最期の日」を決めました。そして、ジトジトした苦しみの中に、自ら落ちていきました。2017年7月のことです。
ところが、一瞬だと聞いていた苦しみが、なかなか終わりません。しばらく耐えていたものの、苦しみから逃れるために死ぬのに、なぜ最後の最後まで苦しまねばならないのかと、だんだん悲しくなってしまいました。そして――
生きなきゃ!
ぼくは強くそう思って、死ぬのを思いとどまったのでした。
「他人のために生きなさい」
ぼくは床に四つんばいになって、ゼェゼェと激しい息をしていました、なんてバカなことを考えたのだろうと思いながら。
そのとき、ちょっと不思議な出来事が起こりました。ほんの少し開いていた窓から風が吹き込み、レースカーテンがふわーっと持ち上がった、次の瞬間、ある言葉が突然頭に浮かんだのです、
人のために生きなさい。
ぼくはしばらく窓の外を見つめていました。よく晴れた深夜3時、隣のマンションの向こうから、柔らかな月明かりがぼんやりと、夏の湿った空気を照らしています。
なんだか、世界が明るくなったような気がしたのです!
あのときの風と言葉は、「イエス・キリストの父である神」に違いない、とぼくは確信しています。聖書では、風は「神のいぶき」という意味もあるからです。
ぼくは命を取り留めましたが、人生を悲観して死んだようになっていました。それが、神のいぶきに吹かれた瞬間、ぼくを死へと誘っていた絶望が、ウソのように晴れてしまったのです! そのときの快い感覚は、いまも忘れることができません(´∀`)
神はぼくの死んだ心にふたたび血を通わせ、二度と死ぬことのないように、生きる態度を正してくださったのだと思います。いままでのように自分自身に執着するのではなく、他人の必要に関心を持って生きるように、と。
なぜなら、他人のために生きることが、神が創造の初めに意図しておられた、人間本来の生き方だからです。そのことは、キリストが授けてくださった〈愛の律法〉でも説かれています。
37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の
掟 である。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」
―「マタイによる福音書」第22章37~40節(新共同訳)
正直、ぼくはいまも、他人のために生きているとは言えない状態です。それどころか、他人を愛して生きることを、果たして生涯の内に決心・実現できるのか…まったく自信がありません。
ただ、ひとつ気づかされたことがあります。それは、かつてのぼくは「自分」という壁で自分自身を追い詰めていた、ということです。神は「人のために生きなさい」と語りかけ、その壁を取り除いてくださったのだと思います。
ぼくたちの最大の理解者イエス・キリスト
ぼくは神の語りかけに救われましたが、それは「励まし」というものでなく「外部から注がれた生命力」という感じの、とても不思議な体験でした。
「人のために生きなさい」とは、どこか哲学や精神論に近い抽象的な言葉だと思います。また、ぼくが死を選ぶに至った周囲の状況が、なにか好転したわけでもありません。
それにもかかわらず、ぼくの気持ちは前向きに変化したのです。しかも、一瞬のうちに、180度逆方向に。それが、あの夜の出来事に神を見いだした理由です(个_个)ハレルヤァ
ただ、ぼくがイエス・キリストをほんとうの意味で知り、信じたのは、神の息に吹かれてから約2年後、2019年4月のことでした。そして同年12月、たったいま、ぼくはこの記事を書いています。
つまり、神の救いの御手に気づいたのは、ずっとあとになってからだった、ということ。
いわゆる「天の声」を聞いたのは、あの夜が初めてでした。神がなぜそのときに信仰を与えてくださらなかったのかは、まったく推測もできませんが。今回、ぼくがあなたにはっきりと証ししたいのは、
神はあなたの苦しみをすべて見ておられる
ということです。現在の世界人口は80億を超えるそうですが、全知全能の神は、そのひとりひとりを心の中までもご覧になります。ぼくたちが苦しんでいるとわかったら、必ず救いの道を用意してくださいます。
ぼくは眼前の問題にばかりとらわれ、「自分」という壁の中に閉じ込められていました。神の語りかけによってその壁が砕かれたことは、ほんとうに恵みとしか言いようがありませんが、あなたの「壁」はなんでしょうか?
もしご自分を苦しめている壁の正体がわかったら、できるだけ早くその解決に取り組んでください。なによりも、「だれか助けて!」という切なる願いを持ちつづけてください!
55深い穴の底から
主よ、わたしは御名を呼びます。
56耳を閉ざさず、この声を聞き
わたしを助け、救い出してください。
57呼び求めるわたしに近づき
恐れるなと言ってください。
―「哀歌」第3章55~57節(新共同訳)
キリストはぼくたちの救いを願い、ぼくたちを神から遠ざけている罪を清めるために、十字架の上で死なれました。あなたのために命を惜しまれなかったキリストが、あなたの苦しみを無視されるはずがありません。
自分がノンクリスチャンであることを気にしておられますか? 思い出してください。まだキリストを知らなかったとき、ぼくが神のいぶきに吹かれたことを。助けを求めてさえいなかったぼくを、神は苦しみのどん底から救ってくださいました。
キリストはいま、苦しんでいるあなたの隣におられます。キリストの十字架は、いまあなたのおられるどん底に立っています。だれも思いがけないような方法で、キリストはあなたの闇を照らしてくださるのです。
* * *
ノンクリスチャン時代の“ヤミ期”に体験した、神の助けについて綴りました。
深い苦しみに沈んでいると、どこにも救いがないように思えてしまいますよね。でも、神はイエス・キリストを通して、ぼくたちに完全な救いを与えてくださいました。それは苦難を取り除くものではなく、苦難の中にあっても確かな希望となる、永遠に続く救いです。
あの夜から時がたったいまでも、ぼくの人生は、黒歴史からは脱したかもしれませんが、“灰歴史”とでも呼べるような停滞が続いています。それでも正気を保っていられるのは、あの夜の神の御言葉が生きているからです。
助けを求めるあなたの声なき叫びは、神のもとに届いたと信じています。神が備えてくださっている逃れの道を、あなたが確かに見つけられるように心から祈っています。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)