遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

絶望の闇しか見えなくても、光はある日突然差し込んでくる

 

身を寄せ合う小羊

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

突然ですが、人生楽しんでいますか? ――「はい」と答えた方、素晴らしいですね。人生楽しまなきゃ絶対損ですよ、せっかく生まれてきたんですから。

「いいえ」と答えた方、生きるって難しいですよね。のらりくらり生きていたって、なんだか世知辛い。なにもかも投げ捨てたくなります。

 

ぼくが同じ質問に答えるとしたら、・・・どちらでもないですね。楽しいときもあるけど、楽しくないときのほうが多い気がする。

中学・高校と軽くいじめを受けたし、社会に出てからは職を転々・・・。人に話して気持ちのいい人生じゃなく、むしろ隠したい黒歴史を生きてきた感じw

 

さて今回は、ぼくの苦しかったニート・ひきこもり時代のことをちょっとだけ語りながら、いまだから気づけるキリストの助けについて綴ります。

その時代はまだクリスチャンじゃなかったのですが、そのころからすでに、ぼくはキリストの恵みの中にいたみたいです。

 

 

罪滅ぼしのための自分いじめ

ぼくがニートやひきこもりとして過ごした年月を合計すると、約3年になります。その期間に稼げるはずだった給料を計算したら、なんと700万以上! これはでっかい損失です・・・。

仕事を辞めたのは精神的な問題が理由だったので、お金のために心を傷つけながら働くことを考えれば、それは損失とは言えないかもしれません。

 

メンタルだけが問題ではない気もするのですが、とにかくぼくは仕事がどれも長続きせず、すぐに辞めることを繰り返していました。

仕事が続かないと自信をなくして、「新しい仕事に就いても、どうせすぐ辞めちゃうんだろうなぁ」と思うので、仕事探し自体もやらなくなります。

そうすると必然的に社会との関わりが希薄になって、自己嫌悪と劣等感に支配されていく。そんな自分を人目にさらすのがイヤで、部屋にひきこもるようになる・・・。

社会とつながりのない状態は、まさに闇です。犯罪者にさえ劣等感を抱いてしまうのですから、「あぁ、あいつは犯罪ってかたちで社会と関わってるな」と。

 

ニート・ひきこもりの苦しさは、それが一番ではないかなと思います。

ニートであることに自己嫌悪し、社会全体に対して劣等意識を持ってしまうこと。

自分を存在価値のない、恥ずべき人間だと思ってしまうこと。

 

ニートということは収入がなくなるわけなので、生活できなくなる苦しさもあるはずですが、ぼくは当時もいまも実家暮らしですから――

幸か不幸か、両親はぼくを家から追い出そうとはしませんでした。だから、別に自分で稼がなくても、衣食にはまったく困らなかったのです。スネカジリ虫(ФwФ)

 

ぼくの好きな作家に、田中慎弥という方がいます。その方は高校を卒業してからずっとひきこもりで、たしか33歳のときに作家デビューしました。33歳までずっとひきこもり。

でもぼくと違うのは、全然自己嫌悪していなかったことです。「親の金で飲む酒はうまい」なんて言えてしまうくらい。ほんとに羨ましいですよ、その図太さwww

 

田中さんのようにのほほん顔でひきこもることが、ぼくにはできなかった。性格の問題でしょう。“ヤミ期”の始まりです。

「自分で選んだ仕事さえまっとうできないなんて、情けない」

「結局、ただ甘えてるだけだ」

「みんなが普通にできてることが、どうしてできないんだ?」

ぼくは毎日のように、自分を責めつづけました。

 

それにぼくは、日本国民の三大義務も果たしていなかったし・・・。「教育」はまぁ別として、「勤労」はしていない。ということは、所得税の「納税」もしていない。

義務を怠っていながら国民として日本の領土に安住している、そのことへの罪悪感。あのときは、自分で自分を責めることが世間に対する免罪符になる、と考えていました。

 

結果として、自分を責めたことで得られたものは、なに一つありません。それまでの苦しみを煮詰めに煮詰め、特製苦しみシチューをつくっただけです。あのシチューは苦かった(x_x)

「これで世間が赦してくれた!」という実感も、当然のことながらゼロでした。

 

「自分を救うのは自分」はまっ赤なウソ

ぼくは自分を責めるのに疲れて、なんとか早くこの状況から抜け出そうと思うようになりました。でも、その方法がわからない。

ネットで「ニート 脱却」と検索してみても、これという具体的な解決策は見つからず・・・。と言うより、示された解決策を実行する勇気が出ませんでした。

それでまた、自己嫌悪と劣等感の闇に逆戻りです。もう自分を責めなくていいように行動したはずなのですが。おかしいなぁ・・・(@_@)

 

そこでぼくは勇気を出そうと、過去に買った自己啓発本を開いてみました。結果、大失敗!!

そこには、「わたしはいかにダメな人間で、いかにその劣等感を力に変えて、いかに成功と幸せを手にしたか」が書かれていたのです。ぼくはこう思いました、

「それ、あんただからできたんでしょ・・・」

自己啓発の類を書く人というのは、結局はもともと強い人間なのでしょう。どうしようもなく弱いぼくが、生まれつき強い人間をまねしようとしても、土台無理な話ですw

 

嗚呼、“病み期”から“闇期”へまっしぐらぁ~(ノД`)

 

解決策はいくらでも見つけられるのに、それを実行する勇気がない。

勇気をもらおうと頼った先で、自分の無力さを改めて突きつけられる。

いったい、そんなときはどうすればいいのでしょうか・・・?

 

当時のぼくは、まだクリスチャンではありませんでした。神さまの存在を認識してはいたけれど、ただそれだけで、神さまに頼ろうとは思わなかった。

「自分を救えるのは自分だけ!」という幻想にすがりつき、必死にそれを信じて、なんとかそれを実践しようとしていたのです。

――が、頼るべき自分、自分の“神”である自分は、もはや自分を救うどころか、自分を支えることさえできなくなっていました。

 

闇の底に堕ち、死を求める・・・

“ジブン教”の破綻!!

こんなことであと何十年もあるかもしれない人生を生きていけるのか、と将来を思い描くこともできませんでした。

「希望のない人生なんて、いっそ捨ててしまおう・・・」

何度も同じ間違いを繰り返して、そのたびに自分を傷つけてきた人生ですから、なにも惜しむことはありません。これが正しい選択なのです・・・。

 

ぼくは「最期の日」を決めました。だれかに悪い刺激を与えるといけないので詳しくは書きませんが、なるべくきれいに死にたいと思いました。

そこで、メンタルクリニックで処方された睡眠導入剤を2週間分まとめて飲み、首を吊りながら寝落ちしようとしたのです。でも、2日連続で失敗。死ぬのも楽ではありません。

 

3日目――

この日に死ねると思いました。ついに念願が成就すると。ジトジトした苦しみの中に、着実に落ちていったのです。前日までとは全然違う実感でした。

ただ、一瞬で終わるというのは、ウソです。結構な時間、ずぅ~っと苦しい。手足が震えてくるし、過呼吸のようになるし、ひどい吐き気も襲ってきます。

 

これさえ乗り越えればと思って耐えていたのですが、

「自殺する人は苦しくて死ぬのに、なんで最後の最後まで苦しまなきゃならないんだ!」

と、なんだか悲しくなってしまいました。

 

――

「生きなきゃ!」

ぼくは強くそう思って、死ぬのを思いとどまったのです。

 

闇の底に吹いた風、「人のために生きよ」との言葉

窓辺に座る黒猫

ぼくは床に四つんばいになって、ゼェゼェ激しい息をしていました、なんてバカなことを考えたんだろうと思いながら・・・。

そのとき、ちょっと不思議な出来事が起こりました。まぁ、ぼくの記憶が美化されている可能性もなくはないのですが^^;

 

死臭対策のために少しだけ開けていた窓から、ふわーっと風が吹き込んできて、レースカーテンを持ち上げました。

そして突然、「人のために生きなさい」という言葉が、ポンと頭に浮かんだのです。ぼくはしばらく、窓の外を見つめていました。

 

よく晴れた深夜3時。隣のマンションの向こうから、柔らかな月明かりがぼんやりと、夏の湿った空気を照らしていました。

なんだか、世界が明るくなったような気がしたのです。

「ぼくは生きられる」見慣れているはずの夜景なのに、初めて見るような、希望を持たせてくれるような景色に見えました。

 

いまだから言えるのですが、あのときの風と言葉は、キリストに違いないと確信しています

 

風は、聖書では「神の息吹」という意味もあります。

ぼくは自殺に失敗しましたが、あのとき一度死んだのです。キリストはあの風で、ぼくに新しい生き方を示してくれた。そう思います。

 

そして言葉によって、生きる道を正してくれた。

ぼくはいつも自分のことしか考えていませんでした。だれかに迷惑をかけない範囲で自分が幸せを実感できれば、わざわざ他人を気にかける必要はないと。

でも、他人のためになにかをして、他人に必要とされなければ、ほんとうに幸せになることなんてできません。キリストは、ぼくにそのことを気づかせてくれました。

 

聖書では、他人を大切にすることと神さまを大切にすることは、同じくらい重要なことだと語られています。

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

―「マタイによる福音書」第22章37~39節(新共同訳)

 

キリストは一人ひとりのよき理解者

「人のために生きなさい」という言葉に出会ってから、ぼくはまるっきり変わりました。それまで絶望が、ウソのように晴れたのです。あれは気持ちよかったぁ(´∀`)

懸垂器にぶら下がっているネクタイを捨て、窓を全開して腐った空気を追い払い、丁寧に布団を整えて、晴れやかな気持ちで新しい朝を迎えました!

 

あのとき、キリストが助けてくれなかったら・・・。

そう思うとほんとうにゾッとします。神さまに助けられたからには、「自分の人生には必ず意味がある!」と思えるようにもなりました。

 

さて、キリストはぼくを死から救ってくれましたが、ただ言葉をかけて励ましてくれただけでしょうか? キリストは高いところにいて、ぼくがはい上がってくるのを、ただ待っていたのでしょうか?

違います!!

キリストは、どん底にまで降りて来てくれたのです。そして、ぼくの心の隅々までよく理解して、その苦しみに寄り添ってくれました。それだけではありません。

キリストはぼくをどん底から引き上げ、この世で生きる意味があるということを、しっかりと教えてくれたのです。ハレルヤ!!

 

ぼくがそう思うのは、自分の気持ちの変化があまりにも急だったからです。一瞬のうちに180度転換した心境を、キリスト抜きに説明するのは無理がありますw

ぼくが実際にキリストを信じるようになるのは、それから1年半ほどあとのことです。でも、そのときから見守られていたんだなぁと思うと、自然に讃美があふれてきますね(^艸^)♪

 

冒頭のぼくの質問に「いいえ」と答えたあなた、もしかしたら出口の見えない苦しみの中にいるかもしれません。苦しくてたまりませんよね・・・。

選びたくない選択肢を選ぶしかない、と思っているかもしれません。でも、自分のほんとうの気持ちを押し殺さないで、諦めずに「助けて!」と強く祈ってみてください。

一人になれる場所で心を静めて、神さまに苦しみを打ち明け、真剣に救いを祈り求めるのです。キリストを知らないノンクリスチャンでも、あなたの気持ちは届くでしょう。

 

ノンクリスチャンの祈りがどこまで聞かれるのか、ぼくにはわかりません。真摯な祈りが“不発”に終わったということが、クリスチャンにもあるからです。

でもまだノンクリスチャンだったとき、ぼくはキリストに救われました。助けを求めてさえいなかったのに、神さまはぼくを苦しみのどん底から救ってくれたのです。

ならば、ほかのどの神さまでもなく、聖書の神さまだけに望みを懸けて祈る人を、神さまは憐れんでくれるのではないでしょうか?

 

* * *

 

クリスチャンとなったいまでも、ぼくは“ヤミ期”を通ることがあります。ただ、以前のように自分を責めすぎたり、将来を悲観したりすることはありません。

キリストはわたしは世の光である(ヨハネ8:12b)と言いました。物事が好転しなくても、自分の弱さを痛感しても、その問題を光のもとに照らし出すのです。つまり、神さまに委ねてしまいます。

すると目の前の状況は変わらなくても、不思議とどこか楽観的でいられます。キリストという希望の光さえ見失わなければ、もはや闇に支配されることはないのです。

 

ところで、ぼくは「人のために生きなさい」という言葉で救われました。いま、人のためになにかできているかとかれたら、自信を持って答えられるようなことはできていません。

だからいまは、あなたがキリストという光に気づくきっかけを与えることで、あなたのお役に立てるように願っています。あなたの心の傷や不安に、やさしい癒しと静かな慰めがありますように。アーメン。

 

 


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引用の出典

  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)

画像の出典(Pixabayより)

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