ハレルヤ~! 安田遜です。
信仰から離れたと言いながら、神について考えない日はありません。別れたはずの恋人のことを未練たらたらに思い焦がれているようで、われながら滑稽ですw
でも、神の存在そのものを疑っているわけではないので、今後の天気を気にするのと同じだと言えば言えそうです。この先に超大型台風が上陸するという予報に触れるのと同様、ぼくにはある気がかりがあります、
このまま信仰が戻らなかったら、ぼくはどうなるのかな…?
ノンクリスチャンの方には(もしかしたらクリスチャンの方にも)理解しがたいことかもしれませんが、ぼくは聖書の内容をすべて真理・真実だと信じています。「信じている」というより、「事実として受け入れている」というほうが正確です。
ぼくが信仰から離れたのは、その「事実」が自分の理解を超越しすぎていて、心情的に追いついていかないからに過ぎません。頭ではわかっていても、気持ち的に受け入れられないということが、きっとあなたにもあるでしょう。ぼくの場合、信仰面でそれが起こっているのです。
聖書を全面的に受け入れているぼくにとって、イエス・キリストを信仰しない者は、とともに地獄へ落とされる、という啓示はとても強烈に響きます。たったいま寿命が尽きれば、ぼくは地獄へ行くことになるかもしれないからです。
悪魔神と人間の仲を引き裂く霊的存在。元は天使であったが、自ら神の位につこうと反乱を起こし、堕落して「この世の神」となった。サタン、ベリアル、ベルゼブルなど、多くの別名でも知られる。
ところで「信仰」とは、キリストに自分のすべてを委ねて捧げることを言います。いまのぼくは「認識」という段階で立ちどまり、その認識の中に心情的に納得できないことがあるために、信仰にまで到達できない状態。
要するに、キリストにすべてを捧げたい気持ちが、すっかりなくなってしまったのです…。
地獄に落ちるかもしれないという懸念も、ぼくの信仰心に火をつけることがありません。正直、「もうどうでもいいやぁ~!」と開き直ることさえあります。 かと思えば急に不安になって、神への讃美が湧き起こってはこないかと、心の中にわずかな信仰心を見つけようとすることも。
ぼくは信仰を情緒的なものというよりは、圧倒的に理性に傾いた知的行為だと考えているので、ある程度まで自分自身を納得させる必要があるのです。だからこそ、不安や恐怖などの感情に押し流されて、得心のいかないことを信じるふりはできません。
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イエス・キリストはぼくたちを地獄行きの運命から救うために、ぼくたちの身代わりとして、十字架の上で神の裁きを受けました。
たったひとりの「人」が人類全体を救済できるはずはありませんから、キリストこそはたったひとりの「神」なのです※。神自身が裁きを身に受けることで人類救済に成功した、というのがキリスト教徒の理解であり信仰です。
イエスは神の裁きを受けて死ぬために、正真正銘の人間の肉体を持って生まれて来た神です。キリスト教会は、イエスを「まことの神であり、まことの人である」と認めています。
イエスが神であること、その神が自ら裁きを引き受けたこと、それによってぼくが救われる権利を得たこと。それらの点に、ぼくはこれっぽっちの疑いも抱いていません。ただ、どうしてもこう思ってしまうのです、
なんで、そんなしち面倒臭いことしたんだよっ!?
神なのだから、裁きなど必要としない完璧な世界をつくれたはずだと思いませんか?
そもそも「裁き」というからには、裁く対象が必要です。それは「罪」であり、ぼくたちこそが罪の保有者であり、それゆえにぼくたちは、地獄に落ちることが生まれながらに決定しているのです…。
罪とは、具体的には神に背く性質のことで、それをぼくは個人的に“反神的気質”と呼んでいます。でもその気質は、ぼくたちが欲しくて備わったものではありません。食欲や睡眠欲のように生まれつき備わっているもの、つまり、神が意図的にインストールした性質なのです!!
神は自分の施したプログラミングを激しく後悔したから、その責任(愛する人間たちに地獄行きを運命づけてしまった責任)を取るために、自ら十字架の苦しみを味わったのかもしれませんね。
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聖書には旧約と新約がありますが、それらの「約」とは「契約」のことです。
イエス・キリストが十字架の上で死んだにもかかわらず、すべての人が地獄行きをまぬかれるわけではないのは、ひとりひとりが神と個人的に契約を交わす必要があるからです。その契約が「信仰」であり、イエスが自分の罪を肩代わりしてくれた「キリスト=救い主」だと心から信じることで、ぼくたちは救われる権利を行使することになります。
信じるだけで救われるんだから、信じなきゃ損だよ!
クリスチャンはよくそう言うのですが、ほんとうに信じることはなかなか難しいものです。第一、聖書の世界観を受け入れるのが、ハードルの高いことでしょう。ぼくの述べてきたように、聖書の語るこの世界は、神による不条理演劇の舞台なのですから…。
この舞台では、ぼくたちは常に死後のことを念頭に置き、己の夢や野望を捨てて、神のエゴイスティックな犠牲に感謝しつつ、神のご機嫌を伺いながら生きなければなりません。場合によっては、古くからの友達とたもとを分かち、好きな人に別れを告げる必要もあるでしょう。
まぁ、ぼくのそういう理解の仕方がまったく見当違いなのかもしれませんが、心情的に信仰できない理由を少しはわかっていただけた(?)と思います。
ついに地獄へ落とされることになっても、それは仕方のないことだと思うし、そうなって当然だろうとも思います。もちろん地獄には行きたくない。
だからと言って、心のモヤモヤをとりあえず横に置いておいて、教会の席上で神に祈りを捧げる(ふりをする)心境にはたどり着けないのです。