遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

「いるかどうかもわからない神を信じてる」という信仰の真実味

 

教会で祈る人

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは2019年4月末のイースターに初めて教会へ行き、翌年のイースターには洗礼を受けました。何事も長続きしないぼくのためとでも言うように、教会がウチから徒歩20分圏内にあることは、神の恵みと言わざるを得ません!笑

そんなぼくの所属している教会はこぢんまりとしたコミュニティーで、礼拝に集うのは毎週30人弱。それもお年寄りの方が多くて、30代以下の信徒はぼくを含めて5人くらいしかいません。

 

さて今回は、超高齢社会の縮図とも言えるわが教会を支えてこられた長老の、ある“迷言”に触れてみます。早速ネタバラシすると、長老は「わたしたちはね、いるかどうかもわからない神を信じてるんですよ」とおっしゃったのです(・_・)シーン

 

 

信仰とはギャンブルである!?

長老の思いがけないひと言に、「キリスト教会の長老がそんなこと言っちゃっていいの!?」と純粋に思いました。牧師先生もみんなも、ただ苦笑いするしかありませんw

もちろん、クリスチャンだからと言って神が見えるわけでも、神の声が聞こえるわけでもありません。だから、「いるかどうかもわからない神」というのは正直な言葉だなぁ、とも思いました。とは言え、です^^;

 

長老のその言葉を受けて、ほかの長老がおっしゃいます、

 

まぁ信仰ってのは、「賭け」のようなものですよ。だって、天国があるかどうかなんて、死んでみないとわかりませんからねぇ。

これにはさすがに異議の声もあがりましたが、ぼくはもうなにも言えず、口角をピクピクさせて愛想笑いするばかりでした。礼拝からの帰り道、ぼくの頭の中では、長老たちの言葉が絶え間なくリピートされていました。

 

 

ぼくの信じてる神様って、いったい

 

長老たちの言葉をきっかけに、ぼくは改めて「聖書の神」について考えさせられることになりました。

 

そもそも神は存在するのか?

ぼくは小さなころから、神の存在を信じていました。いえ、もはや信じる・信じないのレベルではなく、当たり前のように「いる!」と思っていたのです。

見えも触れもしない存在をなぜ認識できたのかは謎ですが、とにかくぼくは、神の存在を疑ったことは一度たりともありませんでした。

 

でも、神は同じように見えも触れもしない空気と違って、その存在を科学的に証明することはできません。最新科学をもってしても不可能です。だから、「神などいない!」と主張する無神論があるのも、まぁ自然なことだと思います。

ただよく言われますが、「神がいること」を証明できていないのと同じように、「神がいないこと」が証明されているわけでもありません。

 

「神の存在の証明不能=神の不在の証明」にはならないのです!

 

ぼくは「神はいる」という証明不能のことを信じているキリスト教徒ですが、無神論者たちは「神はいない」という証明不能のことを信じている“無神教徒”だ、と言えるのではないでしょうか?

 

結局、神がいるのかいないのかの答えは、ぼくたち個人個人の中にあるものだと思います。つまり、信じるか信じないかの問題だ、ということです。

ものすごくぶっきらぼうで、もはや投げやりだと思われてしまうかもしれませんが、いくら熱心に考えても、そういう結論にしかたどり着けないのですε=(´ε`)フゥ

 

No God, No World

赤ちゃんを包み込む手

言わずもがなのことですが、聖書は「神はいる」という前提で書かれています。その聖書の中に、まことの神を認めない人たちに対して、かなり威圧的な言葉を投げかけている箇所があります。

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません

 

―「ローマの信徒への手紙」第1章20節(新共同訳)

ここで「彼ら」と言われているのは、聖書の神を信じようとしなかった人々のことです。「弁解の余地がありません」なんて、ずいぶん大見得切ったなぁと思いませんか?笑

 

これはキリストの弟子・パウロのセリフですが、彼は「この世に存在するものを見れば、神がおられることは明らかじゃないか!」と言うのです。

ちょっと考えてみましょう。

まず、ぼくたちの体の成り立ちや仕組みを、不思議に思われたことはありませんか? ぼくたち自身が、神を知るいちばん身近な例だと思うのです――

 

はじめ「無」だったぼくたちは、母親の卵子と父親の精子が結合して、初めて受精卵として「有」の存在となりました。この時点ですごい!

それが母親の胎内で魚のような形態を経て、徐々に人間の形に変化していきました。目になるべき細胞が足の爪になることはなく、肝臓になるべき細胞が右脳になることもありませんでした。

生まれたら、だれに教わったわけでもないのにすぐ肺呼吸を始めて、オギャ~ッと上手に泣き、数年後には、初め顕微鏡でしか見えなかった卵が、顕微鏡を扱えるまでに成長したのです(//∇//)アメイジング!

 

さらに、ぼくが人体の不思議を痛感するのは、あらゆる場合を想定したさまざまな機能があらかじめ備えられている、ということ。例えば、以下のような仕組みです。

  • 目はヤケドして失明しないように、光の量に応じて瞳孔が開いたり閉じたりする
  • 物を飲み込むとき、意識しないでも弁が動いて食道と気道を分け隔てる
  • 心臓は自律的にテンポよく動き、新しい血と古い血が混ざらないようにもなっている
  • どこかに傷ができたら、血小板が勝手に傷口へ集まってかさぶたをつくる
  • 繊毛は常にピロピロと運動して、細菌やウイルスを体の外へ排出する

ほかにも複雑精緻なプログラミングがぼくたちの体に施されていますが、それがつきとおのうちに完成してしまうのですから、ほんとうに驚くべきことです!

 

もうひとつだけ、ぼくの感動におつき合いください(>人<)

イモムシの完全変態です。イモムシはサナギになりますが、その中身はドロドロの液体らしいのです。かなり効率の悪い成長の仕方だと思うのですがそれできれいな羽のチョウになってしまいます!

それも全部、「イモムシがサナギに変態して体を液状化させ、2対の羽、3対の脚、1本のストローを持つ体に変態する」というふうにプログラミングされているからですが、こんなに意味不明で人間の好奇心を刺激する、意味不明で完璧な仕事をなし遂げるプログラマーとは、いったいだれなのでしょうか?

 

 

それが神様だ!

 

そうパウロは言っているのです。とんでもなく複雑な仕組みがほぼエラーも起こさず、完璧完全に実行されるのは、神がそれらを創造されたからだ、と。

それは科学的には証明できないことですが、森羅万象をつかさどるプログラマーがいるというのは、かなり現実的でロジカルなことだと思います。

 

神は信じるべき存在である

小さなころから神を信じていたとは言え、ぼくはやおよろずのカミガミを「神」だと思っていたし、その中の特定のカミを信仰していたわけでもありませんでした。

それなのに、ぼくがなぜ「いるかどうかもわからない神」という客観的にはあやふやな存在に、しかもほぼ無縁だった「聖書の神」に信仰を持ったのかというと、理屈抜きにこう思ったからです、

 

 

イエス・キリストを信じたい!!

 

イエスは実在の人物です。歴史の授業で確かに習いもしましたから、それは疑いようがありません。手元の資料にもはっきりと書かれています。

イエスはユダヤ教の形式化と堕落とをきびしく批判し、人の身分や貧富・善悪の区別をこえておよぶ神の愛と、その神を信ずるものの救いとを説いた。一部の民衆はイエスこそ民族の苦難を救うメシア(救世主)だとしてしたがったが、ユダヤ教の指導者たちはイエスをとらえて裁き、ローマ人の総督に彼を処刑するよう求めて、その願いをはたした。

 

―「世界の歴史」編集委員会=編『新 もういちど読む山川世界史』P.35

ただ、イエスが神から遣わされたメシア(キリスト)であるかどうかは、「信じるか信じないかはあなた次第です!」という話になります。

 

イエスこそキリストだとぼくが信じたのは、人生を振り返ったとき、節々で必ず救いの手が伸ばされていたことに気づいたからです。もちろん、直接的な救いの手のぬしは、学校の先生だったり職場の仲間だったり、いつでも人間でしたが。

でも、その背後に間違いなく神の導きがある、と感じたのです。

そして、その神がだれなのか知りたいと願ったとき、ぼくの前にクリスチャンの方が現れました。ほんとうに不思議だと思います。

 

そんなことがあって、「ずっとキリストに見守られてたんだなぁ」と思うようになり、ぼくはクリスチャンの仲間入りを果たしたわけです٩( 'ω' )و

 

いるかどうかわからない神を信じられる恵み

すごくもどかしいのですが、クリスチャンも神の姿を見ることはできないし、その存在をだれもがわかるように証明することも叶いません。

ぼくたちクリスチャンは、それぞれが体験したイエス・キリストの働きかけや語りかけを受け入れて、キリストこそが「まことの神」だと本気で信じている。ただそれだけなのです。

 

神はいるかどうかわからないとか、信仰はギャンブルだとか、そんなことをほかの教会で言ったら、きっと白い目で見られてしまうかもしれませんね。でも、ぼくの教会の長老たちは、神をそういう存在だと一方で認めながらも、長年信仰を持ちつづけているのです。

 

ぼくはそこに、「長老たちの信仰の真実味」と「神の存在の確実性」を感じます!

 

ほんとうに実在性を疑わせるような神に、人間がこれほどの信仰を持てるとは思えないからです。また、所詮ギャンブルだからと言えてしまうような信仰を、何十年も保ちつづけられるとも思えません。

ぼくは長老たちの言葉に初めはドキッとしましたが、じっくり考えてみると、「信仰」の奥深さ・素晴らしさを思い知らされました。まことの信仰を持つ長老たちを、ぼくは心から尊敬します!

 

なにより、イエス・キリストという神の力に、改めて信頼することができました。だって、あれほど強い信仰心を人間に持たせてしまうのですから(^艸^)

揺るぎないクリスチャンである長老たちを中心とした、あの素晴らしい教会にぼくを導いてくださった神に、心からの感謝を捧げます。

 

* * *

 

今回は、長老の“迷言”から「聖書の神」について考えたことを綴りました。

キリスト教は人生のプラスアルファ、つまり「よりよく生きるための宗教」ではありません。そのことは、厳しい迫害や殉教に直面した、キリスト教会の多くの先人たちも命懸けで証明しています。

「神はいる」という真実ゆえに、クリスチャンは信仰を保っているのです。そして、その真実が証明不能のことだからこそ、「信仰」というのです。

 

イエス・キリストはご自分が「真実」であることを伝えるために、さまざまな局面でぼくたちの人生に介入なさいます。あなたがその介入に気づき、恐れずに応答してくださることを祈っています。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
  • 「世界の歴史」編集委員会編『新 もういちど読む山川世界史』(山川出版社)
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