遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

100%の信仰心がなくても、神は祈りを聞いていてくれる

 

祈る人の組まれた手

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

クリスチャンになってから、ぼくにはふたつの習慣が増えました。ひとつは毎週教会で神を礼拝すること、もうひとつは祈りを捧げることです。普通に生活しているだけでも、祈りたいことはポンポン浮かんできます。

ぼくは自分のために祈ることのほうが多いのですが、クリスチャンは他人のためにもよく祈ります。闘病中ののこと、仕事に悩んでいる友達のこと、遠い外国の恵まれない人たちのこと。すると、神がその人に御心を留めてくださる(と信じている)ので、不思議な安心感に包まれるのです!

 

と言っても、初めのうちは「祈りって、ほんとうに意味あるのかな?」と思いながら、形だけの祈りを捧げていました。ある日、その疑いがさっぱりと晴れる体験をしたので、今日はそのことを綴りたいと思います。

 

 

祈りを疑うことは神を疑うこと

祈るとき、ぼくはできるだけだれもいない場所へ行き、心を静め、軽く目を閉じて祈りを捧げます。それは神を信じているからこその行動であって、もし信仰がなかったら、そんなふうに祈ったりはしないでしょう。

――が、ぼくは信じられていなかったのです∑(゜д゜)

冒頭で述べたとおり、ぼくは祈りになんて意味があるのかと、祈りの効力を疑っていました。でもそれは、こんな祈りがほんとうに叶えられるのかと、神の能力を疑うのと同じことだったのです。それに気づかされたのは、ある祈りを捧げたときのこと――

 

ぼくには(たぶん軽度の)視線恐怖症があります。ある心療内科では「神経過敏ですね」とだけ言われたのですが(原因を追究してくれ、他人の視線を妙に怖く感じてしまうのです。

人混みの中だと視線が分散するからか、逆に気になりません。いちばん不安になるのが、人通りの少ない道でのすれ違い。だいたい50m手前から「気にするな!」と無駄に身構えて、結局気になり、どっと疲れてしまいますф(´ε`)

調べると、視線恐怖症に悩んでいる人は思いのほか多いようで、いわゆる現代病のひとつだそうです。とりあえず、自分だけではないと知ってホッとしましたが、それで苦しさがどうにかなったわけではありません。だから、ぼくは祈ったのです、

 

 

神様、どうか視線恐怖症を癒してください。苦しくてたまりませんもしそれが難しければ、せめて自分を責めるような感覚だけでも取り除いてください。

 

そう祈ったあと、ぼくはなにげなく聖書を開きました。すると、「けがれた霊に取りつかれた子をいやす」のページにしおりが挟まれていました。イエスが、ある子どもに取りついたを追い出す、という場面。

20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。21イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。

父親は言った。「幼い時からです。22霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもをあわれんでお助けください。」23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。24その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

―「マルコによる福音書」第9章20~24節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。

このあと、父親の信じたとおり、息子はイエスに救われるわけですが――ぼくはしばらくフリーズしてしまいました。

 

 

祈りって、聞かれてるんだ

 

さて、ぼくがどんなふうに祈ったか思い出してください。「(症状を癒すのが)もし難しければ」と祈ったのです、「おできになるなら」と言った父親と同じように。ぼくも、全知全能の神の力を疑っていたのでした。

神は、ぼくの祈りを一言一句逃さずに聞いておられました。それどころか、ぼくの祈りの姿勢が間違っていることを示してもくださいました!

 

祈りが届くのはクリスチャンだけ・・・じゃない?

ただの偶然だとは言わせませんw あまりにタイムリーすぎる出来事に、もう声帯が勝手に震えて、気づくと感謝を口にしていました。

それから、ぼくはあの父親のように「信じます!」と念じて、祈りを捧げ直したのでした。

そのことがあってから、祈りは必ず聞かれていることを確信し、ぼくは神に全幅の信頼を寄せて祈れるようになったのです(´∀`)ハレルヤァ

 

ところで、神が祈りを聞いてくださるのは、クリスチャンだけなのでしょうか? 決してそうではないことを、ぼくは実体験から知っています――

 

聖書の神に出会う前から、ぼくは神の存在を信じていました。ただ、信じていたのはやおよろずのカミで、その中のひと柱のカミに守られている、とぼくは直感的に思っていました。ぼくの健康面はこのカミ、仕事面はあのカミというのではなく、“ぼく専属の神”がいるのだ、と。

とは言え、「八百万」と書き表されるカミガミの中の、いったいどのカミが“ぼく専属”なのか、もちろん知るよしもありませんでした。まさか、全国各地の神社をシラミ潰しに当たるわけにもいきません。

そこでぼくは、「神だったら、わざわざ出向かなくても、祈りを聞いてくれるはずだ!」と都合よく決めつけ、ぼくの専属であるはずの“だれかわからない神”に、名前を尋ねる祈りを捧げはじめたのでした。

 

神からなんの返事もないまま数年が過ぎ、ぼくは精神疲労によって、当時勤めていた職場を辞めることにしました。ところが折しも、新任のエリアマネージャー・Aさんが着任し、ぼくに業務量の少ない店舗への異動を勧めてくださったのです。

ぼくが不安半分でその勧めを受けると、その異動先で、“だれかわからない神”からの応答をも受けることになりました。のちに大恩人となるクリスチャン・Rさんが、そこで働いておられたのです! 神はRさんを通して、ぼくの祈りに答えてくださいました、

 

 

遜よ、おまえの探しつづけている神だが、それはおれのことだ。おれの名前は、イエス。おれこそが、“おまえ専属の神”だ!

 

初め、ぼくはその応答をなにかの間違いだと思っていました、“ぼく専属”なのは日本のカミであるはずだと思い込んでいたから。でも、やおよろずのカミのだれかが答えてくれることは、ついにありませんでした。

ぼくがイエス・キリストを受け入れたあと、実はAさんもクリスチャンだったと知ったときは、ほんとうに驚きました。Rさんも、その事実をご存じではなかったのです!

神は、ただおひとりしかおられません。だからこそキリストは、“ぼく専属の神”を求めていた、ぼくの祈りに応えてくださったのだと信じています。

 

このように、まことの神は、半信半疑の祈りにも耳を傾けてくださるだけではなく、ご自分をまだ信じていない人の、真剣な祈りにさえも応えてくださいます

あなたが心から真実を祈り求めるなら、神はご自分こそが真実であることを、あなたに隠さず教えてくださるのです。まだノンクリスチャンだったとき、ぼくはこの身をもってそれを体験しました(〃▽〃)アーメン!

 

届かなかったから叶わなかった・・・じゃない!

ぼくの信じている神は、あなたやぼくがどこにいようと、ぼくたちの祈りを確実に聞いていてくださいます。そのことは、この記事で証ししてきたとおりです!

 

ただ、その祈りがは、また別の話。

 

事実、ぼくの視線恐怖症も癒されていません。仕方がないので、催眠療法に通って、その症状を引き起こしているトラウマの解消に取り組みはじめています。なんだか祈りを諦めたような言い草ですが、そんなことはありません!!

神は御心によって、ぼくたちの祈りをあえて叶えてくださらないことがあります。また祈りが叶うときも、ぼくたちの望むかたちでは実現しない、と多くのクリスチャンが証言しています。

視線恐怖症はほんとうに苦しいので、ぼくはそれが一瞬にして、お金も時間もかからずに治ってしまう「奇跡」を望むのですが、そういうかたちでは叶えられそうにありません。

催眠療法は、「いままでのメンタルクリニックはなんだったんだっ!?」と思うほど、心によい変化をもたらしています。その先生はもちろん自分で探して出会った方ですが、心療所選びには神の力が働いていた、とぼくは確信しています。だから、ぼくはいつか治るのです!

 

ところで、イエス・キリストは、祈りについてこう教えておられます。

23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 

―「マルコによる福音書」第11章23~24節(新共同訳)

ほかの箇所では、〔神は〕願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(マタ6:8)ともおっしゃいました。ギュギュッと要約すると、こういうことです、

 

 

神を信じろ!

 

ぼくは神を信じているつもりでしたが、心のどこかに疑いがつきまとっていました。どうせ叶うはずはない、なにか条件つきでなければ叶えてくださらない、などと。

そんな疑念やそんたくは必要ないことを、今回、神ご自身が示してくださいました。疑いの祈りさえ天に届いたのですから、確信の祈りは言わずもがなです!

 

* * *

 

今回は、クリスチャンにとって「呼吸」とも言われる祈りについて綴りました。

まことの神は信頼に値する方です。その神に祈るのに、高価な捧げ物はもちろん、5円玉さえも必要ありません。「信じる心」「信じたいという気持ち」があれば十分です。そのことを、ぜひ覚えておいてください。

イエス・キリストがおっしゃったとおり、神はあなたに必要なものをご存じです。もし神を信じたい気持ちがあれば、いまその場で祈ってみてください。神はあなたの必要を満たし、あなたに信じる心を与えてくださるはずです。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)