ハレルヤ~! 安田遜です。
クリスチャンになってから、ぼくには2つの習慣が増えました。1つは毎週教会へ行くこと、もう1つは祈りを捧げることです。
普通に生活しているだけでも、祈りたいことってポンポン浮かんでくるものです。あなたもそうだと思うのですが、「お腹痛いの治りますように・・・」とか祈りませんか?
クリスチャンって自分のためだけじゃなくて、他人のためにもよく祈ります。まぁ、ぼくは自分のために祈ることのほうが多いんですけど^^;
例えば、闘病中ののこと、人間関係で悩んでいる同僚のこと、仕事に行き詰まっている友達のこと、遠い外国の飢え死にしそうな子どものこと・・・。
そういうことを祈ると、神さまがその人に目を向けて気遣ってくれる(と信じている)から、すごく安心感に包まれるんです!
兄弟姉妹クリスチャンが同じ信仰を持つ人に対して用いる敬称。ただし、一般的には「●●さん」と呼ぶことがほとんどで、兄弟姉妹と呼んだり呼ばれたりすることを好まないクリスチャンもいる。
と言いながら、はじめは「祈りってほんとに意味あるのかな?」って思っていました。半信半疑で、形だけの祈りを捧げていましたw
今日は、その疑いがさっぱりと晴れたときのことを綴りたいと思います。あのとき以来、ぼくの祈りは確信を伴ったものになったのです。
祈りを疑うことは神を疑うこと
キリストは祈りについて、弟子たちにこう教えています。
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
―「マルコによる福音書」第11章23~24節(新共同訳)
祈るときは疑っちゃダメ、信じれば叶うけど疑ったら叶わない、というなんとも強迫的な説教ですね。ほかの箇所では、(神さまは)願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ
(マタイ6:8b)とも教えられています。
これらをギュギュッとひと言に要約すると、
「神を信じなさい!」
ってことです。
いえいえ、ぼくはちゃんと神さまを信じてますよ。だからこそ、こうやって胸の前で手を組んで祈ってるんです! 神さまを信じてなかったらそんなこ――
・・・え、信じられてない?
そうなんです。
ぼくは祈りを捧げることに意味があるのかと、祈りの効力を疑っていました。でもそれって、こんな祈りが叶うのかと、神さまの能力を疑っているのと同じことだったのです∑(゜д゜)
不信仰で無礼な祈りも聞かれている
そのことに気づいたのは、ある祈りを捧げたときのこと――
ぼくは(たぶん軽度の)視線恐怖症を持っています。精神科では「神経過敏」とだけ言われたのですが、他人の視線が妙に怖く感じることがあるのです。
特に、人通りの少ない道で向こうから人が歩いて来たとき。・・・(゜д゜;)コワイ
人混みの中だと視線が分散するから逆に気にしないで済むんですけど、1人の人がまっ正面から視界に入って来ると、もうどこ見ていいかわからなくなっちゃうんですよ。挙動不審w
だいたい50メートル先から「気にするな!」って無駄に身構えて、結局気にしちゃって、脇汗タッラタラ、心臓バックバク。もうほんと疲れる・・・ф(´ε`)
視線恐怖症って、調べてみたらそんなに珍しくはないらしいです。いわゆる現代病の一種で、携帯とかスマホが原因の一つだとか。
んー、別にスマホはなくても平気だし、人前で話すのは好きなほうだし・・・。そもそもいつから視線を気にしだしたのか・・・、さっぱり覚えていません。
とりあえず、「自分だけじゃないんだ・・・」ってホッとしました。でも、それで実質的な苦しさが解決されたわけじゃありませんから、ぼくは祈りました。
「神さま、人の視線が怖く感じるときがあります。ひどいと体にも反応が出てしまって、とても苦しいです。どうか恐怖を取り除いてください。もしそれが難しければ、恐怖を感じてもそれを受け入れ、むやみに自分自身を責めることのないように助けてください」
祈りを捧げてから、そういえば最近読んでないなぁと思って、ぼくは何気なく聖書を開きました。
そしたら、「
悪霊悪魔の手下として暗躍する霊的存在の総称。
人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。
父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
―「マルコによる福音書」第9章20~24節(新共同訳)
※読みやすくするため、改行位置を一部変更しております。
このあと、父親の信じたとおり、息子はイエスによって助けられるわけですが――、ぼくはしばらくの間フリーズしていました。
「祈りって、聞かれてるんだ・・・」
ぼくがどんなふうに祈ったか覚えていますか? 「おできになるなら」と言った父親と同じように、「もし難しければ」と言って祈ったのです。全知全能の神さまの力を疑っていたんですよ。
神さまはぼくの祈りの言葉を、一言一句逃さずに聞いてくれていたのです!
しかも、その祈り方が間違っていることを示してくれたのです!
叶わなくても、祈りは確実に届いている
それにしても、あまりにタイムリーすぎて笑っちゃいました(^艸^) もう声帯が勝手に震えて、無意識に「感謝します」って言っていましたもんね。
それからぼくは、あの父親のように「信じます!」と念じて、祈りを捧げ直しました。
このことがあってからぼくは、祈りが必ず聞かれていることを確信し、神さまに全幅の信頼を寄せて祈れるようになったわけです。ハレルヤ!
ただ、祈りが「叶えられるか」は、また別の話。
神さまはだれの祈りでも聞いてくれるは聞いてくれますけど、だからと言って、叶えてくれるとはかぎらない。そこは勘違いしやすいところですね!
事実、ぼくの視線恐怖症も癒されてはいません。まだ人目はかなり気になるし、心臓のバクバクが治まらなくなるときもあります。だから、祈りつづけています。
道の上で、電車の座席で、「ヤバイッ!」と思ったら、すぐに心の中で祈るのです。そうすると、キリストがすぐ隣に来てくれて、ホ~ッと緊張が和らいでいきます。
そうやって“インスタントお祈り”もするんですが、夜寝る前とかは、15分くらいかけて祈りを捧げています。まぁ、毎日じゃないですけどf(^_^;)
15分っていうのは、「最低でも15分」と決めているわけじゃなくて、いろいろ祈ってたらそのくらいの時間になっちゃうんです。
ただ、キリストはあなたがたが祈るときは、・・・くどくどと述べてはならない
(マタイ6:7a)とも教えていて、15分の祈りって長いのかなぁ、なんて気にしているんですけど、どうなんでしょう??
牧師先生に聞いた話、祈るべきことをリスト化してそれを一つひとつ、合計2時間くらいかけて祈っている人がいたらしいです。その人にぼくのことも祈ってほしいなぁw
2時間に比べたら15分はあっと言う間だから、神さまは聞いてくれるでしょう。そう勝手に決めつけて、「祈りのリスト化」も取り入れながら、これからも祈っていきます!
* * *
今回は祈りについて綴りましたが、楽しんでいただけましたか? クリスチャンの一番の特権って、「神さまに祈れること」だと思うんですよね、個人的に。
ところで、神さまに祈りが聞き届けられるのは、実は、仲介役としてイエス・キリストがいてくれるからこそなんですよ。
「あれ、キリスト教って一神教だよね? 神さまの仲介役がキリスト? キリストは神じゃないの??」
そう疑問を持ってくださったあなたのために、いま別の記事を用意しています。でも、ぼくも勉強中の身ですから、早まって間違った情報を教えてはいけません。
いま、牧師先生に質問したり、講解動画で勉強したりして、しっかりと基礎を学んでいる最中ですから、ぼくの知識が十分になるのを楽しみに待っていてくださいw
キリストを受け入れれば、あなたも神さまとのつながりを取り戻して、いつでも自由に祈ることができます。ぜひ自分の救い主として、キリストを心にお迎えしてくださいね^^
あなたのために祈ります!
この記事を読んでくださったあなたの上に、豊かな恵みが与えられますように。そしてあなたが、神さまからの招きに喜んで応えられますように。アーメン。
引用の出典
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)