ハレルヤ~! 安田遜です。
4月になって、新しい年度が始まりました。喜ばしいことなのに、このカオスな状況だと、素直に祝っていいものか戸惑いますね…。予定どおり学校を再開できるのか、国会ではいろいろと話し合われているようです。
東京都では、公立高校をなんとGW明けまで休校にするのだとか! 夏までにある程度落ち着いたら、高校生と高校教師は、遅れを取り戻すために夏休みを一部返上して、学校に出ねばならなくなるかもしれません。どうなるのぉ(ノД`)
あらゆる判断が正しいのかどうか、それはあとになって初めてわかることのような気もします。千里眼の完璧な判断を下せる人間はいませんから、後手に回る政府への批判はほどほどに、考えうる最善を徹底したいものです。
そんな先の見えない状況の中、ぼくは本日4月1日、イエス・キリストを信じてからちょうど1年にあたる記念日を迎えました!
この日を「新生日」と名づけて、カレンダーに登録しています(〃▽〃)
新生とは言っても、人格や生活態度が劇的に変わったわけではありません。キリストを信じた、または洗礼を受けた瞬間、ほんとうに別人のように心を変えられたり、難病を癒されたりする人もいますが、ぼくは奇跡の対象者ではありませんでした。
我が強いのは変わらない、欲を抑えることもできない、ちょっとしたことですぐイラつく、人の欠点にばかり注目する、他人を論破しようとする、親に憎悪を抱く、飼い犬を怒鳴りつける、よく見られようと自分を飾る、見栄張ってウソをつく…。数え上げたらキリがありません。
変わったと言えば、そういう衝動や行動に対して、「罪の意識」を持つようになったことです。
いままでは、我を貫き通すことが正義だとか、欲望に忠実に生きることが自由だとか、自分を怒らせる他人が悪いだとか、自分を正当化することが常だったのが、その自己中心性に後ろめたさを感じるようになりました。後ろめたさという程度のものではなく、はっきりと「心の痛み」として表れることもあります。
ノンクリスチャンの方には、それは生きづらいように思われるかもしれません。でも、それまでなにげなくやっていたことに「罪」を感じることこそ、クリスチャンになった証拠だというのです。
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ぼくに罪を悟らせるのは、わかりやすく言うと「良心」です。ディズニー映画『ピノキオ』では、コオロギのジミニー・クリケットがピノキオの良心、つまり教育係として活躍します。幼いピノキオに善悪の分別を教え、立派にその役目を果たしました。
ぼくの良心は、もちろんイエス・キリストです。ジミニーがいつもピノキオのそばにいたように、キリストの霊がぼくの内に宿り、一体となってぼくを導いてくださいます。その霊のことを「聖霊」といいます。
聖霊は、善悪をわきまえない新米クリスチャンのぼくに、なにが神の御前に正しいことで、なにが神に喜ばれることなのかを教えてくださるのです。ぼくが「痛み」を感じるのは、聖霊が罪を知らせておられるからでしょう。キリストは次のようにおっしゃいました。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
―「ヨハネによる福音書」第14章16節(新共同訳)
キリストはご自分の「父」、つまり創造主である神に願い、ご自分の霊を「弁護者」として遣わしてくださいました。この聖霊はぼくの内に親しく住みながら、ぼくが神の御前に罪なきことを弁護してくださるのです!
そのことは、ぼくに「神の子」という新しいアイデンティティーが与えられたことを示しています。
ピノキオはジミニーに導かれて、本物の子どもになることができました。ぼくはキリストへの信仰ゆえに、聖霊の内住によって、神の子どもとなる特権を得たのです٩( 'ω' )و
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聖霊が与えられるというのは、先述のとおり、イエス・キリストご自身が約束なさったことです。その約束について、キリストの弟子・ペトロ(ペテロ)も次のように保証しています。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
―「使徒言行録」第2章39節(新共同訳)
いまあなたは、あなたにも信仰によって聖霊が降る、という約束を知りました。では、「それじゃあ、イエス様を信じよう!」と決心なさいますか? もしぼくがあなたなら、きっと決心できないでしょう。
1年前の今日、この小さな部屋で起きた奇跡が自分でも信じられず、なんだか不思議な気持ちがしています。ほんとうに、考えれば考えるほど不思議なのです。
まさか、このぼくがクリスチャンになるなんて…!?笑
別に神を信じる道を選ばなくてもよかったはずなのですが、キリストはあなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ
(ヨハ15:16)とおっしゃいました。
ぼく自身がキリストを信じようと決めたというよりも、そう決断するように導かれた、ということです!?
ただ、どうしてぼくを選んでくださったのかは、いくら考えてもわかりません。こんなことを言うと、ほかのクリスチャンの方々に失礼かもしれませんが、キリストはかなり物好きだと思いますw
キリストの選択基準はたぶん永遠の謎でしょうが、31種類のアイスクリームの中から好きなものを選ぶように選ぶわけではない、という気がします。ぼくはただ「好きだから」という理由で、チョコミントとポッピングシャワーを選びます。でもそれを言うなら、キリストにとっては「すべてが愛の対象」なわけです!
だから、キリストがぼくを選んだのは、ぼくを通してほかの人たちに「愛」を伝えるためであり、ぼくにはそのための能力がなにかしら与えられているのだろうと思います、それがなにか見当もつきませんが…^^;
神の愛をありがたく思えても、その愛を反映させながら生きるのは、ぼくにはとても難しいことです。いまはただ、神に「わが子」と呼んでいただけるのを喜ぶことしかできません。
神の子とされたいまでも、苦しみや葛藤は尽きないけれど、キリストの十字架をこのブログで伝えることで、神の大きすぎる愛に少しでも報いられればと願っています。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)