遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

神頼みをすることは自力本願から始まる!?

 

他人に手を伸ばし引き上げる人

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくは最近、約10か月に及ぶ不信仰期を脱しました。神に関する矛盾と疑問をどうしても無視できなくなり、神への信頼を失っていたのです。いまでは、すべてをわかるはずもない、という結論に落ち着いています。

不信仰の理由はもうひとつあり、聖書を盾に自分の欠点を正当化している感覚があった、ということです。その感覚は、「神頼み=怠慢」という考え方に直結してしまいました。それはまったくの見当違いだったと、いま改めて認識しています。

 

ぼくが不信仰から目覚めたのは、神にそうなることを願ったからではありませんでした。今回は神の救いの体験を交えつつ、救われるのに必要な唯一の自力本願について、ぼくの考えることを綴っていきます。

 

 

負け犬根性を捨てたつもりが・・・

神を信じるなんて、弱い人間のすることだ」とは、よく聞きます。神を信じるぼくは見た目にたがわず(ぼくは色白でひょろりとしています)、まったく弱い人間なので、その言葉に少しの異論もありません。でも、他人にそう言われたり思われたりするのは、イヤだったw

だから、少なくとも平均以下の“弱いやつ”に見られないように、弱点を克服しなければならないと考えました。そしてその弱点が、「信仰」だったのです。

冒頭で述べたように、ぼくは聖書の御言葉をかさに着て、弱い自分をみじめにも慰めていました。世の中をうまく生きていけない自分を正当化するために、世の価値観の「虚」を語る聖書を盾に、世間をどこか嘲笑っていたのです。

 

聖書が世の教えを人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事(コロ2:8)と言ったり、世の価値観をはかない罪の楽しみ(ヘブ11:25)と呼んだりするのは、人々をバカにしてのことではありません。

ぼくたちをほんとうに豊かにしてくださる、イエス・キリストに導くためです。

ぼくはそんな初歩的なことにつまずき、人を救うはずの御言葉を都合よく曲解して、世間の営みを心の中で蔑んでいました。その心の働きは、まぎれもなく、ぼくの「負け犬根性」によるものでした。

 

ぼくの信仰のあり方が間違っていたのですが、そもそも「信仰」などあるからいけないのだと、なかばヤケクソで不信仰にはしったわけです。そして、まずは自分の力だけで世に認めてもらわねばならない、と意気込んだのでした。

ところがそんなことは無理だと、過去の自分が証明済みです。

いままで自分の力でなし遂げたことなんてひとつもないし、自分の知識や経験を頼りに選んだ物事はほぼ失敗しているし、「自力本願」など絵空事でしかありません。だからこそ、信仰に立ち帰るまでの10か月間は、ほんとうに苦しいものでした。

 

神はぼくのその苦しみを見逃さず、超自然的にぼくを信仰へ引き戻してくださいました。

 

超自然的に与えられる信仰心

導入部分で語ったとおり、ぼくが不信仰から覚めたのは、特にそのことを祈り求めたからではありませんでした。厳密には「ほんとうの信仰心を下さい」と祈っていましたが、そう祈りはじめたのにも、これと言ったきっかけがあったわけではありません。

むしろ神に不平不満をぶつけ、神の主権に対する“異議申立て”に始終していました。そして、沈み込むような苦しさの中でうめいていただけですw

もしかしたら神は、そのうめき声を聞いていてくださったのではないか、とぼくは考えています。それは、聖書に次のような記述があるからです。

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

 

―「ローマの信徒への手紙」第8章26節(新共同訳)

 

がぼくの苦しみを共有し、神への悪口雑言の裏に隠れていた、「苦しいんです。助けてください!」という思いを、ぼくの代わりに祈ってくださった。

神は聖霊の取りなしの祈りを聞き、「わかった。まずは、わたしのところへ帰って来なさい」と、ぼくの信仰心をよみがえらせてくださった。

ちょっと都合のいい話かもしれませんが(笑)、ぼくはそういうことだったと信じています。だって、自分で信仰に戻るつもりは、ほんとうになかったのですから!

 

振り返ると、ぼくがイエス・キリストを信じたのも、超自然的な導きによるものでした――

 

第一に、ぼくはやおよろずのカミを信じていましたが、その中のだれかひと柱のカミだけが“ぼく専属の神”だ、と確信していたことが不思議です。ぼくはその“だれかわからない神”だけに感謝と信仰を捧げるため、名前を尋ね求めていました。

第二に、その神への導かれ方が絶妙でした。ぼくはメンタルを病み、当時の職場を辞める気でいたのですが、ちょうどそのとき、クリスチャンのエリアマネージャー・Aさんが着任されました。

Aさんはぼくに異動を強く勧めてくださり、ぼくはその異動先で、キリストを紹介してくださったRさんに出会ったのです。その時点で、AさんもRさんも、お互いがクリスチャンであることをご存じではありませんでした(・_・)マジ!?

第三の奇跡は、ぼくは“だれかわからない神”に祈っていたのに、ちゃんとその神が応えてくださった、ということです。それは恐らく、ぼくがやおよろずのカミを信じながらも、「たったひとりの神」を求めていたからだと思います。

 

神は、ただおひとりです。

 

ぼくの真剣な求めに応えてくれたのは、父・子・聖霊の三位一体の神おひとりだけでした。だからぼくは、なんの疑問も後ろめたさもなく、「神はたったひとつだ!」と証しできるのです٩( 'ω' )و

 

他力の道も自力から

ぼくの体験談を読んで、「イエス・キリストっていう神本物かもしれない」と思ってくださったらうれしいです、そのためにこの証しを書いていますから!

 

ただ、ぼくがそういう体験をしたからと言って、ぼくにキリストを信じる義務はなかったのです。それは、あなたがこの記事に信ぴょう性を見いだしたからと言って、教会へ行く義務がないのと同じことです。

ぼくがキリストを信じたのは、ただただ信じたかったからにほかなりません。

その「信じる」ということが、ぼくたちの救いに欠かせないのです。一度信じてしまえば、(あえて言いますが)あとは勝手に神が救ってくださいます、ぼくたちが特別な努力をしなくても(^艸^)

 

つまり、救いは本質的には「他力本願」でも、それを得るかどうかの決断だけは「自力本願」なのです。

 

あなたが双子の兄で、弟が信じて救われたとしても、弟のその信仰ゆえにあなたも自動的に救われる、ということはありえません。それは、主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます(使16:31)という御言葉の誤解されやすい点ですね。

あなたが弟と同じところへ行きたいなら、彼と同じ決断を、あなたもする必要があります。そして、その決断が、イエス・キリストへの信仰だけが、唯一の救いの条件なのです。

 

信仰は、弱い人間のすることだ。改めて言いますが、ぼくはまったくそのとおりだと思います。

ところで、弱くない人間などいるのでしょうか? ケンカが強くて、鋼のメンタルで、決して意志を曲げず、なおかつ死にさえも打ち勝てる人間は、果たして存在するのでしょうか?

髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない(マタ5:36)とキリストはおっしゃいました。同じように、ぼくたちは自分の力で自分をうことはできません。ただ「信じる」という独力の選択だけが、それを可能にします。

 

神頼みは決して怠慢などではなく、むしろこの命を真剣に生きる、積極的な決意なのです。

 

* * *

 

救いの第一歩となる「自力本願」について、ぼくの実体験を交えて綴りました。

すべてをくつがえすようなことを言いますが、この記事で述べてきた自力本願さえも、聖霊なる神の働きによると聖書は語り、ぼくもそのことを実感しています。まさに、ゼロから百まで、神の御業なのです(*´ω`*)ハレルヤァ

ぼくは自分の弱さをコンプレックスに感じていて、「やっぱり神頼みは怠慢なんじゃないかなぁ?」と、いまだに思うことがあります。ただ、もしぼくが強い人間だったら、神を信じることはなかったかもしれません。

 

あなたが自分自身に心もとなさを感じていたら、それはラッキーです!笑

もし救いと後ろ盾を求める心があれば、ぜひ「たったひとりの神」に祈ってみてください。イエス・キリストが、必ずやあなたの祈りに応えてくださると、ぼくはかたく信じています。アーメン。

 

 

 

引用の出典
  • 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
画像の出典(Pixabayより)
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