遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

聖書を全肯定する理性と、神に猛抗議する感情

 

地団駄踏む赤ちゃんの銅像

この記事は、番外編カテゴリーに分類されています。

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

キリスト教にはうんざりするほどたくさんの教派があり、ぼくはその中でも福音派に属しています。トランプさんが大統領だった時期、その支持層の一部を占めていた派閥なので、耳にしたことのある方も多いかもしれません。

福音派とは簡単に言うと、聖書の内容を文字どおりに解釈して信じる人たちのことです。

「神は6日間で世界を創造した」と書かれていたら、そのとおりに信じます。「モーセが杖を掲げると海が割れて道ができた」と書かれていたら、それをなにかの比喩だと捉えず、文字どおり海水が左右に分かれたのだと考えます。「イエスは死の3日目に復活した」と書かれていたら、「アーメン(確かにそのとおりです)と受け入れます。

まぁ、最後の復活に関しては、どの教派に属していようと、クリスチャンは全員「アーメン」と言えなきゃおかしいんですけどねσ^^;

 

「キリスト教原理主義」とも呼ばれる福音派は、なかなかヤバい人たちの集まりだと思われるかもしれません。アメリカではトランプさんの支持層だったという事実を併せると、そのヤバさに拍車がかかるでしょうか?笑

はっきり言ってしまうと、福音派はお察しのとおり、なかなかヤバめの人たちが多いです。聖書を字義どおり信じている時点で、もはや一般の方々とは相容れない存在になっている、と言っても過言ではありません。

一般の、ノンクリスチャンの方々と相容れないどころか、日本のキリスト教界でもなにかと波風を立てる存在として、他教派のクリスチャンから(白い目で)見られている節があります。

 

そんな変人だらけの福音派に、ぼくは信仰心を失いながらも、いまだに所属意識を抱いています。信仰がないのに聖書を信じてるって、結構な矛盾ですよねw

自分でもおかしなことだなぁと思うのですが、ぼくは旧約聖書の「創世記」から新約聖書の「ヨハネの黙示録」まで、全66巻の聖書の語る世界観が、まったくのつくり話だと考えることができません。

 

言い換えると、「聖書のウソ」を信じることができないのです!

 

ちなみに、旧約聖書は「創世記」で世界の始まりから書き起こし、この世界を創造した神とその選民・ユダヤ人の、交流の歴史をまとめながら、やがて全人類を救済するキリスト(救い主)が登場することを約束しています。

そのキリストがイエスであることを証しする、やその弟子たちの証言集が、新約聖書です。巻末を飾る「ヨハネの黙示録」には、この世界の終わりに関することが、ものすごく詳細に書かれています。

聖書は、必ずしも正しく読まれてきたわけではありません。あらゆる権力者に都合よく利用され、本来救われるべき弱い立場の人々の、自由と命が理不尽に奪われてきた歴史があります。それでも多くの人々を信仰に導いてきたことも事実で、いまだに世界のベストセラーのひとつになっているそうです。

 

その聖典がウソ八百を並べているだけだとしたら、聖書ほど人類にとって有害な本は、ほかにありません!

 

 

聖書を字義どおり信じる人が「福音派」だということは、聖書の記述を必ずしも全面的に受け入れているわけではない人たちもいます。〈天地創造〉を神話に類するものだと捉えたり、〈モーセの海割り〉を意図的な誇大表現だと考えたり、という具合に。

そういう考え方に対して、特に「創世記」を神話呼ばわりする意見に対して、福音派はだいたい寛容ではありません。血相変えて非難を始める人さえいます。恥ずかしながら、ぼくも以前は“血相変えて組”の構成員でしたw でも、いまはこう考えます、

 

 

まぁ、それも信仰のひとつのあり方だし、別にキリストを否定してるわけじゃないんだから、取り立てて非難することでもないか

 

「創世記」を神話だと考えていても、彼らはキリストに自分を委ねているのだから、少なくとも不信仰ないまのぼくよりは、比ぶべくもなく立派なクリスチャンです。偉そうに非難など、ぼくにできるはずがありませんm(_ _)m

たとえ信仰を保っていたとしても、他人さまの信仰のあり方について、ズケズケと非難するものではないでしょう。キリスト教のコア、例えばキリストの死と復活を否定するものでないかぎり、余計な口出しは慎むべきでした。

 

とは言え、聖書の記述を神話や比喩だと捉えることは、ぼくにはやっぱりできません!

ありもしないことをまことしやかに書かねばならなかったとすれば、事実をそのまま書いたら人々の信仰心に対して心もとなかったとすれば、聖書に啓示されている神はほんとうの神ではない、ということにはならないでしょうか?

ぼくたちが理解しやすいように、筆者が意図して脚色的表現をした可能性はあるでしょう。また聖書は、何世紀にも渡って書写を重ねられました。いまぼくたちが読める聖書は、何度も書き写されたコピーのさらに翻訳版なので、大昔の原典とは少なからず違うだろうとも思います。

 

そのことを考えたとしても、聖書にまったくのウソがひとつでも含まれているとは思えません。もし聖書に少しでもウソがあると認めてしまえば、ぼくの神概念は一瞬で崩壊し、人生はほんとうにむなしいものになってしまいます

 

 

聖書の内容を荒唐無稽なものとして笑い飛ばすことよりも、すべて真実だと大まじめに受け入れることのほうが簡単にできるのは、ぼくが一度は信仰を持ってしまったからでしょう。

ただ、その信仰もいまや風前のともし火。

いまは顕在意識に表れないレベルで、聖書を受け入れた自分の精神と知性を信じたいという気持ちが、神を信じようとする熱意よりも勝っているのだろう、とも言えそうです。

 

ぼくは、聖書の内容を事実として認めているだけでは、信仰とは言えないと思っています。信仰には、聖書に啓示されている神に自分の全存在を懸けるという、もっと積極的な態度が必要なのです。

 

この世界もぼくのことも、完璧完全につくるべきだったのに、わざと不完全さを残してぼくを試すような神に、命を懸けようなんて思えるか~っ!?

聖書を丸ごと信じているがゆえの、どうしてもぶつかってしまう大きすぎる矛盾に、ぼくは足どめされています。まぁ、それはほとんど感情的なもので、追究してもあまり意味のない問題だとは思っているのですが――

 

この矛盾を乗り越える機会を得るためにも、ぼくは考えつづけたい。

この解決できるはずのない矛盾を乗り越える、または乗り越えるのを諦めるためには、もうしばらく無意味な時間を費やす必要がありそうです。なぜ乗り越えなければならないかというと、

 

ぼくには絶対に神が必要だから

 

です。それは、間違いのないことだと思います。神が必要だと確信する理由は、聖書の語ることが真実だと思うからとか、生命の神秘を神なしでは説明しきれないからとか、そうやって簡単に言葉にできるものではありません。

いまは神に対して感情的な葛藤があるので、うまく言葉にできないだけかもしれません。いずれにせよ、理屈ではないところで、神の必要性を確信しているのです。

 

その確信に素直になって、矛盾だらけの世界を受け入れられるようになるために、ぼくはもうしばらくの間、神を哲学の材料にしたいと思いますw

 

 

 

画像の出典(Pixabayより)