遜の箱舟

キリストのもとに憩い、生きづらさから避難しよう!

神に与えられた自由意志に感じる、不可抗力のエゴイズム

 

ふた股に分かれた道

この記事は、番外編カテゴリーに分類されています。

 

ハレルヤ~! 安田遜です。

ぼくが信仰をほとんど失ってしまったのは、「神はなぜこの世を不完全につくったのか?」という、そもそも論に手を出してしまったからでした。別にわざわざそんな面倒臭いことを考えなくてもいいのですが、聖書を学んでいると、その問いは必然的に浮かんでくるものです。

そして、その疑問をひもとく第1段階でまずぶつかるのが、今回のテーマである「神に与えられた自由な選択権は、人間にとってありがたいものなのか?」というもの。

 

ぼくは神を讃美する気持ちを失ったものの、神の存在自体を疑ってはいません。神の全能性についても同様です。だからこそ、神がこの世界を不完全につくったことに怒りを覚えてしまいます。

神はこの世界を完璧につくるべきだった、というのがぼくの主張です。

そんなことを主張したところで、ぼくにとってなんのメリットもなく、自力ではどうしようもないことに駄々をこねているだけなので、むしろ苦しいだけなのですが、思ってしまうのだから仕方がない。それだったら飽きるまでとことん掘り下げてみようということで、神を利用した哲学ごっこに興じている次第ですwww

 

さて、前言と矛盾することを言いますが、ぼくはこの世界全体は完璧な構造で成り立っていると思います。地球と太陽の絶妙な位置関係、無から有となる生命誕生の過程、生物に備えつけられたさまざまな身体機能。どれを取っても、偶然の産物だとはとても考えられません。まさに「神業」だと思います。

 

では、なにが不満なのか? ――それは、

ぼくたちは苦しみながら生きなければならない

という一点に尽きます。完璧な構造で仕上げられたこの世界でも、ぼくたちは苦しみを経験せずに一生を終えることは決して許されません。その理由を、キリスト教会はこう説明します、

 

 

わたしたち人間が神に背き、罪を犯したからです。

 

 

神への反逆罪とは、具体的には、アダムとエバが神に禁じられていた木の実を食べてしまったことを指します。アダム夫妻が神の命令に逆らい、またその実が〈善悪の知識の木〉の実だったことから、人間は神を排除して、自分にとっての善悪を自ら判断する生き方を選び取った、と一般に解釈されています。

さらに悪いことには、その実を食べるようにそそのかしたのがだったため、人間は神よりも悪魔に従う生き方を選んだ、とも言われます。

その結果、人間は自分の罪によって神との親交を失い、あらゆる苦しみを身の上に招いたうえ、この世界にも罪の害毒をまき散らしてしまったのです。さまざまな疫病や自然災害が起こるのも、そのためです。

聖書における罪概念についてはコチラ
キリスト教でいう〈罪〉ってどんなこと?

 

何千年も前のアダム夫妻の罪が、いまだにぼくたちを苦しめつづけているとは迷惑千万ですが、現代を生きるぼくたちひとりひとりもまた、アダム夫妻同様に神に背いて罪を犯しているのだ、とキリスト教会は説明しています。

まぁ、ぼくもいまこうして神に従おうとしていないし、そういう自分こそがほんとうの自分なのだと、そのことを正当化しようと躍起になってさえいるので、教会の言い分に少しの文句もありません。ぼくが文句したいのは教会ではなく、神なのですヽ(`Д´)ノ笑

 

 

なんで神だけに従うようにプログラミングしなかったんだ!!

 

人間を神だけの命令で動くようにつくっていれば、ぼくたちは自分の罪に苦しめられず、神だって、ぼくたちの罪の代償として、ひとり息子・イエスを十字架送りにしなくて済んだのです。

全宇宙の仕組みをゼロから創造した神なのだから、人間を従わせることなどお安いご用でしょう。それなのに、神はあえてぼくたちの中に“反神的気質”を隠し込みました、ぼくたちと人格的な交流をするために――

 

例えば、あなたは魔法使いです。そして、どうしても一緒になりたい好きな人がいるとします。あなたは意中の人に「インペリオ! 服従せよ!」と魔法をかけ、自分を愛させることに成功しました。最初はうれしくて仕方のなかったあなたも、月日を経るごとにある思いが膨らんでいくことに気づきます、

 

魔法が解けても、この人はわたしを愛してくれるかな

神は、人格的な存在です。決して木とか石でできた偶像などではありません。神はぼくたちひとりひとりを本気で愛しているからこそ、ぼくたちに“魔法”をかけなかったのです。ぼくたちが自分の意志によって神を愛することを、神は望み、また期待したのでした。

 

ところが、神からのプレゼントだったはずの自由意志は、ぼくたちを破滅に向かわせることになります

 

 

生きている間に自分の意志で神に立ち帰る人もいますが、彼らも苦しみと無縁ではいられません。

キリストが十字架の上でぼくたちの代わりに苦しみを味わったにもかかわらず、キリスト同様にはりつけにされたり、生きたまま全身の皮を剥がされたり、火あぶりにされたクリスチャンたちは数多くいます。現在も過酷な迫害の中で信仰を守っている人たちがいるし、そうでなくても日々を生きるうえでの困難から解放されるわけではありません。

キリスト教はもともと“ご利益宗教”ではないので、信じればすべての苦難から逃れられると考えるのはとんだ見当違いですが、苦難をも恩恵だと捉える価値観には、どこか狂信的なものを感じてしまいます。

 

そして、ぼくが自由意志に感じる最大の違和感は、

自分の意志で神を信じない決断をした人は地獄へ落ちる

ということにあります。「決断」というほどのかたい意志でなくても、とにかく生涯でイエス・キリストを信じなかった人は、例外なく地獄行きです。

 

「そりゃないよ!」とぼくは思うし、「なんじゃそりゃ!?」とも思います。神はぼくたちを愛しているからこそ、ほんとうに人格的な交流を望んで強制的に従わせはしなかったけれど、従わなかったら結局地獄へポイッщ(゜゜щ)ヒェェ

 

自由意志とは……??

 

人間は神の似姿としてつくられたと聖書は語りますが、なるほど非常な自己偏愛者である神によく似て、ぼくたち人間は自己中心的です。

 

愛である神が、自分に従わなかった者どもを永遠の拷問にかけるために地獄を用意した、という矛盾に整合性を与えるためか、一部のクリスチャンは〈万人救済説〉を信じています。信仰の有無にかかわらず、すべての人が天国へ迎えられるという説です。

ぼくはそれを否定していますが――ということは、いまぼくが死んだら地獄へ落とされる、ということです。ぼくはそれを覚悟しているし、そうなって当然だと思っています――、神の愛をより直接的に表している説なのは事実だし、神はぜひとも万人を救済するべきだと本気で思います。

 

自由意志こそは神の自己満足でしかなく、ぼくは神のおもちゃにされている気がしてならないのです

 

 


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画像の出典(Pixabayより)