ハレルヤ~! 安田遜です。
信仰から離れ、当然ですが教会にも行かなくなりました。牧師先生や教会の仲間からは、ありがたいことに心配のLINEが届きます。信仰が冷めたことは伝えられず、「仕事が忙しいので、休日は体を休ませたくて…」と無難な返事をしています。
ところで、いつも冒頭に使っている「ハレルヤ」ですが、これは「神をほめ称えよ」という意味で、神を礼拝する気持ちをなくしたぼくが使うような言葉ではありません。でも、もはや決まり文句にしているし、「ごきげんよう」くらいの気軽な挨拶として使いつづけることにします。
そういうことにまったく後ろめたさを感じなくなったのも、信仰心がなくなってしまった証拠なのでしょうね…(._.)
前置きはここまでにして、今回は「全知全能の神がつくったこの世界は、なぜ不完全なのか?」について考えてみます。その矛盾こそ、ぼくの信仰にブレーキをかけた大関心事でした。
断っておきますが、ぼくは神の全知全能性を全面的に認めています。
ここでいう「神」とはもちろん聖書の神で、その神にできないことはありません。神はその気になれば、いまこの瞬間に自分自身の存在さえも消滅させることができる、と信じて疑っていないのです。その態度はノンクリスチャンの方にとって、信仰以外のなに物でもないように感じるかもしれません。
でも、すべてを完璧完全につくれるはずだったのにそうしなかった神に、ぼくは強烈な反発心を覚えます。怒りと言ってもいいでしょう。それに対して、多くのクリスチャンはこう答えます、
この世界はもともと完全なものだったんだ。それを台なしにしたのは、神に逆らって罪を犯した人間なんだよ。
神を信じない方ほど、この答えに含まれている致命的な矛盾が、深く考えなくても見えてくるかと思います。ほとんどのクリスチャンは、なぜかその矛盾に触れようともしませんが、その矛盾に行き当たるのは、ぼくにはとても不可避なことに思われます。ぼくの疑念は、こう言い換えることができます、
神は、どうして人間を完璧につくらなかったんだ?
この世界自体が完璧完全だったとしても、そこに住むぼくたちが不完全だったら、この世界の秩序が崩れるのは道理です。
ぼくたちが日常味わう苦しみは、自分自身と周囲の人々の不完全さによってもたらされます。その不完全さは、ときにぼくたちの目にいじらしく映り、小説や映画などの芸術作品に昇華されることもありますが、できれば取り除きたい性質ではないでしょうか?
ぼくたちの不幸は、人間自体のそうした欠陥によってだけでなく、天変地異によっても否応なく運ばれてきます。聖書によれば、それさえも人間の自業自得だというのです。つまり、最初の人間・アダムが神に背いた、その罪が世界に入り込んだことで、この世界は美しい完全性を損なってしまったのだ、と…。
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アダムの背反が秩序崩壊の起点だったとして、そのアダムをつくったのは神です。アダムに伴侶として与えられ、まず先に罪を犯したエバをつくったのも、神です。エバをそそのかし、“禁断の実”を食べるように誘惑したをつくったのも、ほかならぬ神なのです。
悪魔神と人間の仲を引き裂く霊的存在。元は天使であったが、自ら神の位につこうと反乱を起こし、堕落して「この世の神」となった。サタン、ベリアル、ベルゼブルなど、多くの別名でも知られる。
そもそも罪の根源は悪魔だとされますが、ほんとうにそうでしょうか?
神こそが罪の生みの親であり、あらゆる幸不幸の源だ!
ぼくにはそう思えて仕方ありません。そんなぼくの不信仰に、どこか高いところからこんな反論が聞こえてきそうです、
それは自分の不幸のすべてを親や生まれのせいにする、自立心のない毒息子と同じ言い草だ!
そういうクリスチャンは、ぼくと同じくらいかそれ以上に神を冒とくしています。全知全能の神を、人間と同じレベルにまで引きずり降ろして語っているのですから。
そのような信仰者は、あらゆる矛盾を深く考えようともしないばかりか、ぼくのような疑念を“信仰”によって黙殺し、はたから見れば「妄信」としか言えない未熟な信念によって、日々まじめな顔で礼拝ごっこに興じているのです。
さて、人間は自分の子どもがどんな気質を持って生まれて来るのかを知りません。「親ガチャ」という言葉があるように、子づくりは「子ガチャ」を引くようなものでもあるのでしょう。
一方、神はガチャを引きません!
明確な意図を持って、ひとりひとりを創造します。悪魔やアダムやエバに関しても、彼らが自分に逆らうことを百も承知だったのです。そして、アダム夫妻が悪魔に従った罪ゆえに、この世界に滅びがもたらされるとわかったうえで、全創造を計画・実行したのです…。
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この世に生を
神はなぜ、わざわざぼくたちをみじめな境遇に生み落としたのでしょうか?
なぜぼくたちの内側にある罪性をそのままにした、というか、ぼくたちに罪性を植えつけたのでしょうか?
元も子もないことを言いますが、そんなことを考えたところで無駄でしかないことを、ぼくは十二分に理解しています。ぼくの疑問は、「どうして 1+1=2 なんだ!?」と言っているようなものなのです。神はぼくたちをも完璧につくるべきだった、とぼくは大まじめに思っていますが、それこそ「1+1=3 であるべきだ!」という無理論を、ガキっぽく叫んでいるのと同じです。
だからと言って、ぼくは追究をやめたくありません。
自分の思考停止を“信仰”という美辞麗句で飾り立て、なにか達観したような顔で、その実なんの問いにも答えられない土偶のような人間に、ぼくはなりたくないのです(`皿´)و
…なにか取留めがなくなってきたので、人間を