ハレルヤ~! 安田遜です。
ほとんど毎日、ぼくは夢を見ます(つまり熟睡できてない!)。夢を見ているとき、どんなにありえないことが起こっても、それを夢だと思わないのは不思議ですよね。
ごくたまに、夢を夢と自覚できるときがあります。十数年に一度、夢を完全にコントロールできることもあります。そういうのを、「
ところで、先日見たある夢を、今日ふと思い出しました。その夢に感じることがあったので、今回はそれを綴っていきます。――あっ、明晰夢とか、全然関係ありませんw
すごく後味の悪い夢だったのですが、自分自身の弱さと頼りなさに改めて気づかされる、なにか意味深げな夢でした。その気づきを通して、キリストの愛に感じ入ったのでした。
さて、夢の中でぼくは、大きなショッピングモールにいました。そういう施設は、だいたい1階から最上階まで吹抜けになっていますが、ぼくはその3階くらいにいました。手すりに体をもたれて、吹抜けから1階を見下ろしていたのです。そのとき、現実では絶対にありえないことが起こりました!
♪ピンポンパンポ~ン
「本日は○○へお越しくださいまして、誠にありがとうございます。ただいまより、ご来館中のS様を殺害いたします」
ピンポンパンポ~ン♪
もっとありえないことに、ぼくはその放送を迷子のお知らせと同じくらいの感覚で聞いていて、異常さや違和感をまったく感じなかったのです。ほかの客も同じようでした。
「S様」と書きましたが、夢の中ではフルネームで呼ばれていました。それは架空のではなく実在の人物、ぼくが以前働いていた職場の、ベテラン女性スタッフの名前だったのです。
ふと横を見ると、なんと当人のSさんが、ぼくと同じような体勢で階下を見下ろしていました、迫り来る死を知らぬ顔で。Sさんには放送が聞こえなかったのでしょうか?
放送があってすぐ、ぼくの視界にもうひとりの女性が飛び込んで来ました。座布団くらいの大きさの、茶色い米袋のようなものを抱えています。ぼくは直感的に「あぁ、あれで殺すんだなぁ」と思いました。
直感的中!
女はSさんの背後へ行くと、米袋のような凶器を重そうに頭上に持ち上げ、重力には頼らず、しっかりと自分の腕力でSさんの後頭部にたたきつけました。ぼくは、じっとその様子を見ていたのです。
Sさんは気絶したのか、上半身を手すりの向こう側へ投げ出して、ぐったりとしてしまいました。たぶんまだ息はあります。凶器は重いだけで、比較的柔らかそうでしたから。
女の仕事はまだ終わっていません。彼女はひょいとしゃがむと、両腕でSさんの両脚を抱きはじめました。実にテキパキとした仕事ぶりです。ぼくはまた直感的に、女がなにをしようとしているのかを悟りました。
悟りながら、Sさんを救おうとはしなかった。距離にして5mくらいだったでしょうか。助けようと思えば、十分に助けられる距離でした。ちなみに、Sさんはぼくにとてもよくしてくれた方で、ぼくも彼女を嫌いではなく、むしろ好意的に接していたのです。だから、この夢を見たことが、いまでも不思議でたまりません囧
さて、女はSさんの脚を抱えたまま、すっくと立ち上がり、自分の仕事を終えました。Sさんの体は手すりの向こうへ消え、1階のかたい床へまっ逆さまに落ちてしまったのです…。いつの間にか、下手人の女はいなくなっていました。
そして、ぼくはまた、直感的にこう思ったのでした、
あぁ、ぼくが殺したんだ…。
*
現実にこういうことが起これば、当然モール内は大騒ぎのはずです。でも夢の世界では、上の階から人が落っこちて来ようが、まったくお構いなしのようでした。
――とも言いきれない。モール内は平然としていても、どうやら外側は違うようです。だれかが通報したのでしょう、パトカーのサイレンが聞こえてきました。
ぼくは本館と別館をつなぐ渡り廊下に出て、外の様子を見てみました。とても同じ世界とは思えません。モール内の“超然主義”に反して、外には何台ものパトカーが停められ、すでに野次馬が大勢集まっています! 刑事らしき人物がパトカーの屋根に片腕を載せ、険しい顔で部下からの報告を聞いていました。その光景を見たぼくの気持ちはこうです、
潔く、自首しよう!
別に、ぼくが直接手を下したわけではありません。でも、助けられたのに助けなかったのだから、ぼくが殺したも同然だ、と思ったわけです。しかも、Sさんを見殺しにしてしまったと告白するのではなく、「ぼくが殺しました」と言うつもりでいたのです。なんでやねん^^;
ぼくはなぜか、肉親でも恋人でもない女性の罪を肩代わりして、死刑になる覚悟を決めていました。そのときの決意は人生最大、これ以上ないというくらいの本気度でした。
意を決したぼくは、渡り廊下からまた館内へ戻り、エスカレーターで1階へ下りて行きました。すれ違う人は、みんな“超然主義者”でした。
1階に着き、エントランスへ向かって自動ドアをくぐると、空が西日でほんのり赤らんだ、夕方になっていました。立入禁止の黄色いテープが目に入り、その向こうにはパトカーの群れ――。
ぼくはドキッとしました。自分の刑が執行される日のことが、突然頭をよぎったのです。日本の死刑は、絞首刑。ほんとうに恐ろしい刑だと思いませんか?
絞首刑は、一瞬では絶命に至らないらしく、ごくまれに失敗もするといいます。いまではさすがにないでしょうが、外国では昔、首がもぎ取れてしまった死刑囚もいたとか。だから、絞首刑は残酷です。どう考えても、人道的とは言えません。
それに、執行に携わらねばならない刑務官の心理的ストレスも、想像を絶するものでしょう。また、いくら死刑に値する犯罪者とは言え、閉ざされた無機質な部屋の中で一生を終えさせるのは、あまりに無慈悲にも思えます。
パトカーを目の前にしたら、自分はそういうふうに死ぬのだと思って、ほんとうに怖くなりました。死刑になるのが怖くて怖くて、自首する気が失せてしまったのです。
――で、逃げた!!
ついさっき固めたはずの決意は、もうウソのように消えてしまって、いえ、決意したということ自体忘れてしまって、パトカーに背を向けてひた走りました。
この夢を見たとき、ぼくはもうクリスチャンでした。だから、(たぶん罪から逃げようとしていることに対して)正しくないことをしているのはわかっていたのです。目が覚める直前、ぼくは走りながらこうつぶやいていました、
あぁ…神を裏切った。
*
目が覚めてすぐ、ぼくはある人物を思い浮かべました。それで胸が締めつけられるように痛んで、急いで聖書を開いたのです。
66ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、67ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」68しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。70ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が2度鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
―「マルコによる福音書」第14章66~72節(新共同訳)
ぼくが思い浮かべたのは、ペトロ(ペテロ)です。彼はキリストの一番弟子とも言える人物で、ほか11人の弟子たちを代表して、イエスをキリスト(救い主/メシア)だと告白しました。
上の引用箇所は、イエスが逮捕された当日の出来事。その時点でイエスの死刑はほぼ確定していて、つまり、弟子たちも連座して処刑されるかもしれないという状況でした。
ペトロはそれが怖くて他人のふりをしたわけですが、もともと主よ、…あなたのためなら命を捨てます
(ヨハ13:37)と豪語していたのです。その言葉は絶対にウソではなかったと、ぼくは思います。ペトロには、たとえ剣や槍を突きつけられても、絶対にイエスのそばを離れない覚悟があったに違いありません。
それでもイエスを裏切ってしまったのは、ただただ怖かったからでしょう。十字架刑というのは、絞首刑など比にならないほど苦しいものだといいます。イエスも、十字架につけられてから絶命までの6時間、ずっと苦しんでおられました。
ほとんどの場合、十字架の上で2~3日もの間、生き地獄を味わいながら死んでいくのだそうです。イエスが6時間で息を引き取られたのは、はりつけの直前に受けた、激しいムチ打ちの影響だったのかもしれません。
当時は公開処刑でしたから、ペトロも十字架刑の様子を見たことがあったでしょう。自分がその囚人と同じ死に方をするなんて…考えただけで怖いはずです! だからペトロは、イエスに殉じる覚悟をすっかり忘れて、「そんな人は知らない」などと、必死の保身にはしってしまったのだと思います。
そのあと、イエスの言葉を思い出して号泣した、と書かれてはいますが、ペトロもほかの弟子たちも、イエス救出のために手を尽くしたわけではありません。事の成行きをただ見ていただけです、下手に動けば自分も殺されますから。しかも、イエス復活の吉報を聞いたあとでさえ、迫害者たちを恐れて家に引きこもっています()。怖いよなぁ(._.)
その日(イエスが復活した日)、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
(新共同訳)
ぼくは信教の自由が保障されている日本の、安全な屋根の下で聖書を読むだけなので、ペトロたちを情けなく思うこともありました。でも、実際に彼らと同じ状況に陥ったらどうでしょうか?
ぼくはだれかに命を狙われたことはありません。命を狙われている人をかくまったこともありません。死刑の場に居合わせたことも、拷問を受けたことも見たこともありません。そういうときの恐怖をなんとなく想像することはできますが、ほんとうの意味でそれを知ることはないのです。もちろん、知らずに済むのならそのほうがいいに決まっていますが!
肌身に感じることのない恐怖でさえ、しかも夢の中のありもしない恐怖でさえ、ぼくの“決意”を見事にかき消してしまったのです。
どんなに強く思ってみても、やっぱりぼくは弱いのだなぁ、とあの夢は改めて気がつかせてくれました。
イエス・キリストは、弱虫のぼくや裏切り者のペトロの罪を背負って、十字架の上で死なれました。それは、ぼくたちのすべての罪が、キリストの犠牲を通して、神にゆるされるようになるためです。
キリストを信じる人の罪を、神は思い返そうとなさいません。ぼくが夢の中で“決意”を忘れてしまったのよりもずっと確実に、神はぼくたちの罪をお忘れになるのです。神はそれほどまでにぼくたちを愛し、あわれみ、ご自分のおられる天国へと招いてくださっています。
ところで、ペトロはその後、キリスト直々のご指名によって教会の指導者となりました。ぼくがこうしてブログ伝道をしているのも、神からの任命があってのことだと思っています!
あなたにどれだけキリストのことを伝えられているか、わかりません。でも、あなたの心がほんの少しでも、キリストに近づいてくれることを心から祈っています。アーメン。
- 『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)