ハレルヤ~! 安田遜です。
昨日2020年4月12日のイースター礼拝で、ぼくはプロテスタントの洗礼を受けた。牧師先生を含め、8名が集う洗礼式となった!
世の中はいましもコロナ禍のまっただ中。感染拡大阻止のため、政府は緊急事態宣言を発し、国じゅうが外出自粛に努めている。
そんな中での礼拝・・・、かなり迷いがある。教会は社会的責任を果たすべきだし、キリスト教で一番重要なイースターといえども、中止したほうがよかったのではないか、と思わないでもない。
でもこの困難な状況の中で、キリストの復活を祝うための礼拝、そしてぼくの洗礼式が持たれたことは、やっぱり神さまの恵みだと思うのだ。
ノンクリスチャンの方にとっては、「なに言ってんだよ!?」ということを、ぼくは言っているのかもしれない・・・。
同じクリスチャンでも、そう思う方はいるだろう。いまはどんなに大切な礼拝でも、社会に配慮して控えることが、キリスト教会のためにもなるのだと。
実は、ぼくの中にもそういう思いはあった・・・。
洗礼は、人生でたった一度しか受けられないスペシャルなことだ。だから、そういう喜ぶべき儀式をこんな状況の中で迎えていいものか、かなりの葛藤があった。
だから、牧師先生にも「洗礼はまで延期でも文句は言いません」と伝えたが、神さまはぼくのために4月12日を準備してくれた!
ペンテコステキリスト教三大祭日の一つ。聖霊降臨日ともいい、キリストの弟子たちが初めて聖霊(神の霊)を授かったことを記念する。イースターから50日目に祝われ、名称はギリシャ語で「50」の意。
さて、昨日はわが教会始まって以来の試みがなされた。実際に礼拝堂に集ったのは、牧師先生を含めて8人。
ほかのみんなは、LINEのライブ配信で礼拝に参加した!
ちなみに、礼拝堂はイスを150センチ間隔で並べて“密接”を避け、そこに8人が座ったので“密集”とは言えず、始終窓を開け放していたので“密閉”も回避していた。
もちろん全員マスク着用、記名用のボールペンは使うたびに消毒されていたし、遠方からの礼拝者もいなかったので、感染リスクは低かったはずだ。
礼拝開始15分前のテスト配信は、思いのほか手こずった。スマホの向こうでは、牧師先生の声が割れるやらノイズが入るやら、ちょこちょこと不具合があったようだ。
それでもなんとか予定どおりに始められ、礼拝中は大きな通信障害などもなく、ぼくの洗礼式も問題なく進んだ! 神に感謝(´∀`)
*
コロナ騒動の起こる前から、YouTubeなどで礼拝の様子を配信している教会は結構ある。洗礼式を公開している教会もあったのだ!
クリスチャンになって間もないころ、それで初めて洗礼のやり方を知って、かなり「えぇ~!!」と驚いた記憶がある。
洗礼についても記事を書きたいと思っているが、洗礼は大きく分けて、
浸礼(しんれい)・滴礼(てきれい)・灌水礼(かんすいれい)
の3つがある。ぼくのイメージでは、頭にチョンチョンと水を垂らす滴礼がスタンダードだったのだが、どうやら浸礼が正式らしい。
浸礼の様子を初めてYouTubeで見たとき、笑ってしまった。牧師が受洗者の頭を押さえて、水の中にザブンッと一気に沈めるのだからw
受洗者というのが、洗礼を受ける人のこと。その人が牧師と一緒に浴槽のような、プールのような水の中に立って、仰向けに水中へ浸けられる感じだ。
そのとき、受洗者の鼻の中に水が入らないように、だいたい牧師が鼻をつまんでいた。いや、牧師って力仕事じゃん!!笑
かなりインパクトが強いので、「ぼくも浸礼で受けたい!」なんて思ったのだが、ぼくの導かれた教会はチョンチョンの滴礼だった。
ある程度規模のある教会は、洗礼槽という小さなプールを備えつけているようだが、ぼくのところは小さいからか、そういう設備はない。
もしかしたら所属教団などによっても、浸礼か滴礼か、はたまた灌水礼かは、ある程度決められているのかもしれない。
さてさて、ぼくの洗礼式は、3週間ぶりの礼拝の中で行われたわけだが・・・、正直、緊張でどういうことをしたかあまり覚えていないのだ(ФДФ)
ぼくが講壇の前に王子さまのようにひざまずき、その右横で女性信徒の方が杯を持ってくださり、左横に牧師先生が立ってこうおっしゃった、
「父と、子と、聖霊の御名によって」
言いながらチョンチョンチョンと3回、杯に満たされた聖水をぼくの頭に垂らして洗礼を授けてくださった。これでぼくも、正真正銘のクリスチャンだ!!
浸礼だったら水中にザブンだからかなり印象に残ると思うのだが、滴礼のチョンチョンチョンはあっという間だったw
ただ首筋に聖水がツーッと垂れてきて、「あぁ、洗礼受けたんだな・・・」と思うくらい。でもあの不思議な感覚は、きっと受洗のときくらいだろう。
「クリスチャンになるということは、新しく生まれることだ」と言うが、ほんとうにそう思う。うまく言えないけれど、なにか自覚が芽生えた感じがする。
*
社会がいよいよ混迷を極めようとしているときに、神さまはぼくに「新しく生まれなさい」と言ってくれた。感謝なことだ。
この地上でのこの生活だけが、人間の生きるべき世界と命ではない。
ぼくにはほんとうに行くべき――いや、帰るべき場所がある。神さまが、そこで待ってくれている。キリストが、待ってくれている。そう思うだけで生きられる!
そこにはアブラハムもいるし、モーセもいるし、ペトロもパウロもいる。江戸時代に迫害されていたキリシタンたちもきっといるだろう、マザー・テレサやキング牧師も。
先に神さまの
緊急事態宣言の中で洗礼式が持たれたことは、ぼくにとっては豊かすぎるほどの恵みだ。だから、ただただ喜ぼう!!
次回以降の礼拝がどうなるかはわからないけれど、ライブ配信という“恵みの武器”を手にした教会に恐れるものはない。
神さまはこのハイテクな時代にぼくたちを生んでくれたのだから、恵みによって与えられたすべてのものを、神さまのために使っていこう!
・・・調子乗って偉そうなことを言ってしまったf(^^;)
ノンクリスチャンだから、神を信じていないからと言ってあなたを放っておくような、ぼくたちの神さまはそんな狭量な方ではない。
だって、お金も地位も資格も特技も、ほんとうになんの取り柄もない、ぼくのような怠け者の男を救ってくれた神さまが、あなたを救ってくれないと思いますか!?
神さまがあなたを御心に留めてくれている証拠を、ぼくはたったいま示すことができる。それは、
あなたがこの記事を読んでくださっている
ということだ。聖書の神さまは、一つひとつのことに対して意志を貫き通す神さまだ。あなたの生活圏に偶然現れることは、必ず、絶対、なにがなんでもありえない!
あなたがいま〈遜の箱舟〉に乗っておられるということは、神さまがこのブログを用いてあなたを招いているということなのだ!
まぁ、牧師でも伝道師でもないぼくがこんなことを言っても、あまり説得力がないかもしれないが・・・^^;
とにかく、あなたは神さまに愛されています。
洗礼を受けて、ぼくはますますそのことが身に染みた。愛される資格のないぼくを、神さまは豊かに愛してくれる(//∇//)
どうかあなたにも、神さまの愛に気づくきっかけが与えられますように。そして、いつかぼくのように、キリストの体である教会の一員として迎えられますように。アーメン。
杯の女性信徒の方からユリの花束を、牧師先生とその奥さまから美術書と絵本を頂いた。ステキな贈り物に胸がいっぱい!
画像の出典(Pixabayより)
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